Present
□愛しているとも言えないままの。
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――それは歴史上類を見ない、最大の悲劇と呼ばれた。
窓の多い城のはずなのに、どうしてか城内はシナリスの目に暗く映った。それはなんて愚考なのかと自嘲しながらも、思わず目をそらしたくなるほどだった。
白い城壁が自慢だった。
傷一つ無い城壁が誇りだった。
それが今や赤く汚され、醜く穢され、あのころの影も形もない。
戦争。
その二文字が、この国を狂わせた。
「私があのとき、婚姻を承諾していれば……」
気を抜けば緩みそうになる涙腺を、必死の思いで引き締めて、けれど弱々しくシナリスは呟く。
城下では兵士たちの悲鳴と剣戟の音ばかりが聞こえてくる。耳を塞いでしまえたら、いったいどれほど楽になるだろうか。それでもシナリスは、潤む瑪瑙の瞳に情景を映すのをやめなかった。
事の起こりは先日のこと。隣国の王子が突然、前触れすらなく、シナリスを妃に迎えたいと使者を寄越した。しかし、王子とシナリスは互いに会ったこともなく、見たことすらもない。おそらくは、『黄金姫』の噂でも聞きつけたのだろう。
シナリスはその所以となった金色の髪を一房握り締めながら、父王に言った。
『どうか、かの国の王子様にお伝えください。黄金姫は、貴方の夢の中におりますと……』
皮肉だった。皮肉でしかなかった。父王が苦笑するくらいには、あからさまだったと思う。
しかし何故だか父王は一言一句違わずに、かの国の使者にシナリスの言葉を伝えた。それがこの国を脅かす言葉だったなどと、微塵も思わずに――。
かの国の王子は、皮肉を返されたからと戦争をしかけたわけではない。ただ単純に『黄金姫』を手に入れたいがために、こんな悲劇を生み出したのだ。
「私があのとき……」
何度思ったか知れない。
できることなら今すぐにでも、婚姻を結びに行きたいと思っている。けれど父王がそれを許さない。一国の主としてではなく、一人の父親として。
「姫……そのように自身を責めないでください」
カツ、と小さな足音がシナリスの背後から届いた。
シナリスは振り返らずに、輝く瑪瑙を瞼で覆い隠し、胸の前に添えていた手を拳の形に変えた。
「スクス……どうして責めずにいられましょうか。貴方がたも、私を恨んで当然なのです」
護衛隊長であるスクスに届くシナリスの声は、微かに震えている。悲しみとも、嘆きとも、怒りとも、憎しみとも、恐怖ともとれるその振動に、スクスはどうしようもない愛しさを感じシナリスの小さな身体を腕の中に包み込んだ。
「スクス……」
「シナリス様、誰が貴方を恨みましょう。王も、民も、そして俺も、シナリス様のせいなどと思ってはいない」
「表面上でしょう。私もそこまで愚かではありません」
そう言いつつもシナリスは、自分を抱くスクスの腕を縋るように強く握った。
「シナリス様……皆、貴方に国にいて欲しかった。貴方が――黄金姫が俺たち民のためにしてくださったことは数え切れない」
黄金姫、と失望の色を乗せてシナリスが呟く。が、スクスは首を振った。
「いいえシナリス様。貴方はご存知なかったでしょうが、民が貴方を『黄金姫』と呼ぶのは、その髪が理由だけではございません」
「え……?」
「貴方がされたこと全てに敬意をもって、俺たちは貴方を『黄金姫』と称(よ)んでいました。それは眩しく輝かしい存在という意味でもあったのです」
一瞬、シナリスは呼吸を忘れた。
あの厭わしかった名が、なによりも大切な民たちにとってそのような意味を持っていただなどと。
「私は……わかっていなかったのですね」
瑪瑙の宝石から、ひとしずくの光が落ちた。
それを見たスクスは少しだけ表情を緩める。しかしすぐに――歪めた。
「シナリス姫」
ぎゅ、と今度はスクスの腕に力が入る。
シナリスは目元を指で拭ってから、堅い声で「はい」と返した。
もう、わかっていた。
スクスが自分のもとへときた瞬間に。
「王が……討たれました」
王の護衛隊長である、スクスが自分のもとへきた、瞬間に。
「そうですか……」
シナリスは黙祷するかのように目を閉じて数秒、スクスの腕を解いた。
向き合う形になったシナリスとスクス。二人は、永遠の代わりに瞬間だけ見つめ合って、どちらともなく一歩足を引いた。
「スクス・ヒビ。私が隣国へ行ったあと、どうかこの国を頼みます」
「御意。我が主、シナリス王に、生涯の忠誠と――」
愛を。
互いに気持ちを告げたことはない。
けれど、互いの気持ちは知っていた。
「ありがとう。私の最後の祝福を、貴方に――」
額への口付けは、別れの挨拶。いつかくると思っていた別離は、予想していたよりも過酷だったけれど。それでも耐えなければならない、乗り越えなければならない。何故なら、彼女は『黄金姫』であるから。
シナリスはそれ以上なにも語らず、スクスも何を言うこともなく、城外への扉を目指した。
そして扉を、ゆっくりと開いて――、
「シナリス!」
最後に聞いたのは、愛する人の悲鳴と、肉を割く音だった。
――<『黄金姫』の奇跡>。それは歴史上類を見ない、最大の悲劇と呼ばれた。
END