現実逃避の部屋。

□ひとめぼれ
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 たとえばもし一目惚れというものが本当にあったとして、それはいったいいつ始まるのだろう。
 すれ違った瞬間に。目が合った瞬間に。遠くに姿を見た瞬間に。言葉を交わした瞬間に。
 曖昧にぼかされた運命に、奇跡と必然性を感じることが一目惚れというのなら、それはなんて滑稽で、なんてご都合主義な考えなのだろう。

「目と目が合ったその日から……なんてー」

 呟いて、僕は店内を見回した。
 平日の午後三時でも、このカフェ内にいる女性客の数は少なくはない。対して、男性客の数は、僕をいれて片手の指で足りるくらいしかいなかった。もちろん、僕以外の客は相方に女性を連れている。
 今僕がこのカフェの中にいる女性と、一人ひとり何気なく目を合わせていけば、もしかしたら僕に一目惚れをしてくれる女性がいるかもしれない。
 そんな期待と自嘲と好奇心で、僕は一人ひとりに視線を投げていくことにした。
 まず、オフィスレディらしき女性。アイスコーヒーをストローで吸い上げながら、彼女は携帯のディスプレイを見ている。時折ニヤついているのが気になるが、きっと彼氏か誰かとメールでもしているのだろう。
さて、彼女とどうやって目を合わせようか。
 カラン、と僕は目の前のオレンジジュースが入ったコップを一振りした。別にその音で気づかせようと思ったわけじゃないけれど、都合よくオフィスレディがこちらを向いた。
 にこり。
 しかし。
 オフィスレディは僕をひと睨みすると、閉じたばかりの携帯電話を開いて、ものすごい速度で指を動かし始めた。

「うわー……絶対あれツイッターで呟かれてるな」

 おそらく、きもい男と目が合ってにやつかれたんだけど! とか書かれているんだろう。一目惚れどころか、敵意をもたれてしまった。
 それでも僕はめげずに、次の標的に視線を移す。
 次の女性は、いわゆる森ガール風の大学生だ。友達と向かい合って座っているけれど、もう一人は僕に背を向けているから、おのずと標的は森ガールに絞られる。

「さあ、気づけー」

 低く呟いて、じっと見つめる。
 友達との会話にコロコロと表情を変えながら、適度なタイミングでケーキを口に運ぶ森ガール。

「あーあ、口についちゃってるよー」

 森ガールは、チョコレートクリームを口の端につけて談笑を続けている。
 いったいどうして、目の前の友達はそれを指摘してやらないのか。極度に目が悪いのだろうか。ここから見る限りでは、眼鏡のつるは友達の耳あたりには見つからないのだけれど。
 そのうち森ガールと目が合った。
 いよいよだ。
 僕はにっこりと笑って、自分の口の端を指差し、

「クリーム」

 と口の形だけで告げた。
 森ガールは一度首を捻ってから、僕の示した場所に自分の指をあて、ぶつかった感触にすぐ顔を真っ赤にさせた。

「おっとー、これは一目惚れなるか」
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