僕はオトコに生まれたかった。

□僕はメサキに気を取られた。
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 夏休みに入って一週間。

 僕は草原の中に立っていた。





 事の発端は遡ること三日前。

 僕は自室の椅子に座りながら、夏休みの宿題とかれこれ三十分ほど睨み合っていた。とはいえ、問題を解いているわけではない。問題を解くか解かないか、ひいては宿題を提出するかしないかを決めかねているだけだ。

 少し問題内容でも見てみるかと表紙に指をかけたとき、部屋に扉のノック音が二度響いた。それと同時に万里が扉の隙間から顔だけを出す。

「せーんりちゃん」

 一体なんのためのノックだったのか。

 呆れ、肩を竦める。

 合宿以降しばらく、僕は扉の開閉の音に過敏になっていた。ノブを回す音がすれば肩を跳ね上げ、前置きもなく扉が開けば息が詰まる。それは言わずもがな、あの頃の記憶に起因する。

 主張できるプライバシーなどなかったあの頃。

 玩具のように嬲られ。甚振られ。蔑まれ。

 だから肩が跳ね上がり、息が詰まるのは、入室の拒否や恐怖ではなく、無意識に身体が覚悟を決めているのだと思う。

 甲高いヒールの音。

 真っ赤なルージュの色。

 ヒステリックな声。

 むせ返るような香水の匂い。

 浴びせられる痛み。

 扉の音を聞くたびにフラッシュバックするそれは、到底気分のいいものではない。

 それを万里は察した――と言っても、ただ僕が開閉に過敏になっているということだけだろう――のか、今まですることがなかったノックを、ここ最近するようになった。けれど、返事をする間もなく開くのが、なんというか、惜しい。

「ちょっといい?」

 扉から顔だけ状態の万里は、少し気持ちの悪い笑みを浮かべている。

 僕は目の前の宿題を学生鞄に乱雑に放り入れ――半分はみ出したけれどかまわない――、目だけで入室を促した。

 入ってきた万里は、こころなしかステップでも踏みそうだ。

 嫌な予感しかしない。

「あのね、千里ちゃんのお友達がきてるの!」

 見事に予感が的中した。僕の家を知っているオトモダチといえば、思い当たるのは一人だけ。

「入ってもらってもいい?」

 嫌だ。

 と、言いかけた声を溜息に変えて肯けば、万里は飛び上がらんばかりの勢いで部屋を出て行き、<オトモダチ>をつれて戻ってきた。

 僕は目を丸くした。

「な、なんで、君が」

「おっ邪魔しまーす!」

 現状が理解できない。何故多川仁意が僕の家で、僕の部屋で、夏休み中の僕の目の前で、満面の笑みを浮かべて立っているのだろう。

 家は知らないはずだ。以前、多川仁意が途中まで一緒に帰ろうとしつこくついてきたことがあるが、そのときは駅前の商店街で別れ、多川仁意は僕の家と真逆の方向に帰っていったと記憶している。いや、その前に。

 多川仁意はいったい、なんの用で、知りもしない僕の家を見つけ出してまで訪ねてきたのか。

 刹那、脳裏に閃いたのは、勉強合宿のときに立てていたスケジュール表。の、文字。ほぼすべての枠に、入っていた僕の名前。

「入っていい?」

 ぜひ、今すぐ帰ってほしい。

「って、もう入ってるってレベルじゃないだろう……」

 多川仁意はすでに座布団の上に座り、ミニテーブルに置かれた万里が持ってきたお茶を啜っていた。

 僕は帰れというのを諦めて――言ったところで帰りはしないだろうから――椅子から床の座布団の上へと腰を落とす。

「それで? なんの用?」

 お茶のグラスに手を伸ばしながら。

「うん、これ!」

 グラスを持ち上げた瞬間、隙ありとばかりに卓上に広げられたのは、川原や広場、爽やかな笑みを浮かべた少年少女たちが掲載されたキャンプ場のパンフレット。

 もしや。

 嫌な予感、第二弾。

「あのさ、一泊二日でキャンプ行かね!?」

 多川仁意は見事に僕の予感を狙い撃ち抜いた。

「行かない」

「えー!」

「えーって……ついこのあいだ、勉強合宿で二泊三日したじゃないか。なのにどうしてまた好き好んで一日中一緒にいなきゃならないんだ。僕だって一人の時間が欲しいんだよ」

「そんなこと言って、なんだかんだで新里いっつも一人でいるだろー?」

 割と酷いことを言われている気もするけれど、やはり的を射ているものだから僕の頬が引きつる。

「僕は、行きたくないって言ってるんだ。おとなしく諦めなよ」

 頬杖をつき、目の前のパンフレットを弾こうとした僕の指が、ピタリと動きを止めた。

「新里?」

 しかし応えることなく、僕はとうとうそれを手に取る。

「あ、もしかしてそこ行きたい!?」

 キャンプに行きたいわけじゃない。けれど、

「これ……」

「ん?」

「この、乗馬体験ってやつ」

 パンフレットの片隅。馬の写真の横に書かれた『皆で馬に乗ろう! 今ならプラス1500円で体験できるよ!』という文句。

 千五百円とはまた微妙な値段だが、そんなことはどうでもいい。そう思ってしまうほどに僕は、<乗馬>に心惹かれていた。

 むかし、平穏だった頃。よく後ろにライリを乗せて馬で遠乗りをした。のんびりと道を往くのも良かったけれど、なにより駆けるのが好きだった。

 正面からぶつかる空気。

 左右を過ぎていく景色。

 上下する身体。

 耳に響く足音。

 遠くへ、ただ遠くへと、どこまでも行けそうな瞬間。

 後ろに座るライリの温かさ。

 全てが、好きだった。なにもかもを忘れられそうで、何かを掴めそうで、けれどなにも掴めない、いっそそれがいいのだと思える時間。その総てが。

 しかし時代は変わり、馬を交通手段にするどころか街中で自由に飼うことも許されない。バイクがあるのだから、馬も交通手段として一般化してくれたっていいのではないかと、競馬を見るたびに思ったものだ。

「キャンプなしで、乗馬体験だけしたい」

 機会が巡ってきたのならば、逃したくない。

「これ、ここのキャンプ場のオプションだから、それはできないと思うぞ」

「く……っ」

 馬に乗るためには、キャンプに行かなければならないとは。

 馬に乗るためにキャンプに行くか、馬には乗らずに平穏をとるか。究極の選択だ。 

「新里ー。行こうぜー。俺、楽しみにしてたんだからな」

「勝手に予定立てといて、楽しみとやらを押し付けないでくれないか」

 でも、馬には乗りたい。

 でも、キャンプは行きたくない。

 でも、馬に乗りたい。

 でも、キャンプは――。

 葛藤の堂々巡りに一人唸っていると、再び扉のノック音が響き、やはり間髪を容れずに万里が顔を見せた。

「千里ちゃ〜ん、お客様だよ」

 万里のテンションがいつもより鬱陶しい。

「誰?」

「俺だ」

「あ! 斉せんせー!」

 扉の影から、ずいと現れたのは、大層不機嫌な顔をした大和斉だった。
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