僕はオトコに生まれたかった。

□僕はテガミに騙された。
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 旅館の裏は、まさしく<旅館の裏>だった。

 裏庭のように旅館とつながっているのではなく、旅館を一度出なければならなかった。

 誰だ、こんな面倒な場所に僕を呼び出したのは。

 砂埃で白くなっていくスリッパに多少の罪悪感を覚えつつ、心の中でイミのない悪態をつきながら歩く。

 ざっ、ざっ、ざっ、と目的地に近づくにつれ見えてきた景色に、僕は無意識に息を呑んだ。

「……白の上着でも羽織ってくればよかったかな」

 遠い昔に、僕の国で行われていた葬送の儀。その際、纏う衣の色は黒ではなく白だった。まっさらに全てを清算して、生まれ変われるように祈りながら送り出す、という意味だったと思う。

 果たして僕は、白い衣装で送り出してもらえたのだろうか。そもそも、葬送の儀をしてくれる人がいたのだろうか。いや、その前に、僕は見つかったのだろうか。なにもかも清算されなかったからこそ、僕の記憶は留まって、想いも消えることなく有り続けるのかもしれない。

 今さら考えても仕方のないことを思ったのは、目の前に――正確には崖の下に――湖が広がっていたからだった。

 僕は<あのとき>、湖に身を投げた。

 嫌な懐かしさが背筋を駆ける。 

「悪趣味だ、ね」

 今となっては誰にも僕の事情など、僕の最期などわかりはしないのに、無意識に口をついてでる。

 まだ人の気配はない。どうやら僕が先に来てしまったらしい。呼び出しておきながら、自分が先にいないとはいったいどういう了見なのか。

 一度振り返り、再び湖面に目を向けた。

 月の光が緩やかな波を照らし、踊る。そんな幻想的な雰囲気に、頭の芯がぼんやりと揺れる。まるで、手を取られ踊らされているような、そんな錯覚に襲われたが故に、それは当然だったのかもしれない。

『もう、僕は、必要ないね』

 また靄の中から、声がした。

 それはひどく悲しく、そして幸せそうな<僕>の声。

『ねえ』

 風が吹き、水が騒ぐ。

『君は!』

 すべての音が僕を包み、そして――、

『幸せに……!』




 消えていった。 




 悲しくて、幸せで、切なくて、苦しくて、それでも最期にそんな言葉を、そんな偽善を、そんな本心を、吐き出し、叫んで、届けず、届かず、放り投げ、置き去りにした。

 覚えている。

 思い出した。

 手にした手紙の感触も、空の色も、風の音も、波の勢いも、感情も、すべて思い出した。

 記憶の彼方、事実としてあったそれは今、確かに僕の中で活き返った。皮肉にも、アルトが死んだ今になって、蘇った。

「……幸せに」

 そう、僕はそう望んだ。

 アイツが幸せであれと。幸せにならなければ許さないと。そして同時に、哀しみ、恨み、嘆き、祈り、願い、叶うことのなかった夢と希望と期待を胸に抱えていた。抱えて、抱えたまま、沈んでいった。そしてその中には異質な、開放感も紛れていた。

「どうして……?」

 鍵が、開かない。

 辻褄が、合わない。感情と、回想(かんじょう)と、記憶(かんじょう)と、感想(かんじょう)の、辻褄が合わない。

「忘れて、いることがある……?」

 それは初めからわかっている。あの正体不明の声が聞こえたときから、僕の思い出に欠けたピースがあることはわかっていた。けれど、それは、ただ単に膨大な思い出の中、果てしない年月の中、薄れていってしまっただけなのだと、そうなのではないだろうかと。

 けれど、<あの瞬間>は、決して忘れられはしない瞬間だ。未だ落ちていくセカイの一つ一つがまるで連続写真のように、記憶の中に焼きついている。たった一つでも溢れ落とすことを許さないとでも、誰かに命ぜられていたのではと思うほどに深く濃く焼きついている。

 ならば、何故。

 僕は、忘れていることすら、忘れてしまっていたのか。

「……怖い」

 ポトリと、唇から言葉が落ちた。

 怖い。

 なにが。

 忘れていることが怖いのか。忘れていることを思い出したことが怖いのか。忘れていることを思い出そうとすることが怖いのか。何が怖いのか、わからないそのことすら、怖かった。

 カチカチと音がする。それが歯と歯のぶつかり合う音だと気がつく前に、背後からかかった声に振り返っていた。

「お呼び出しありがとう」

 岬レイコが、ひらひらと白い紙片を振りながら笑みを浮かべて立っていた。

 なんとなく予想してはいたけれど、いざ目の前にすると、やはり胃の辺りが疼く。

「呼び出し? 呼び出したのはアナタだろう?」

 懐の紙片を取り出して、僕も岬レイコと同じようにひらひらと振る。すると、岬レイコは一瞬怪訝な顔をしてから、ぶふっ、と吹き出した。淑女としてその吹き出し方はいかがなものか、と僕が思うほどに盛大に。

「あ、貴方、本当に、カワイソウ」

 笑いを咬み殺す岬レイコ。

 かわいそう。

 最近、よくそう言われるけれど、何度聞いてもいい意味には捉えられそうにない。多川仁意ならポジティブフィルターを通して、カワイソウという単語すら良い意味に変えられそうだけれど、残念ながら僕にそんなフィルターは搭載されていない。

 くすくすくす、と笑い続ける岬レイコが落ち着くのを待ってやるほどの心の広さを持ち合わせていない僕は、眉間にしわができるのを自覚しながら問いかけた。

「それ、どういう意味? もしかして、僕を憐憫してくれるためだけに、こんな場所に呼び出したの?」

 わざわざそんな頼みもしていないし想いもしていないことを、創って悟って受け取って憐れむような一人芝居に付き合わされてしまっているのだろうか。

 そんなわけがない、なんてわかりきっている。

「あのねぇ」

 ふふ、と余韻を残しながら、岬レイコは肩にかかった髪を払った。

「私は貴方に呼び出されたの。でも違ったみたい。この紙を渡してくれた男の子が、貴方からだって言ってたから、私てっきり」

「え……?」

 僕からだと、岬レイコに手紙を手渡したオトコ。

 嫌な予感がする。

「ほら、なんて言ったかしら? 貴方といつも一緒にいる、ちょっとお馬鹿な感じの……」

 お馬鹿な感じの、オトコノコ。そんなの、一人しか思い当たらない。否、思い当たってしまった。

「多川仁意、のこと」

「そうそう、そんな名前だったわね」

 <仁意>なんて名前はそうそういないから、岬レイコがよほど耳が悪くない限りは、聞き間違ったりはしないだろう。

 では、本当に、多川仁意が。

「……その手紙を」

「え?」

「その手紙を見せて。アナタをここへ呼び出したその手紙だよ」

 筆跡なんて知らない。けれど、どうしても確認せずにはいられない。どうしても、どうしてなのか。

 岬レイコが「どうぞ」と僕の方へ紙片を突き出す。なるべく距離をとって、その紙片を受け取った。

 白く折りたたまれた紙は、どことなく多川仁意が使用していた紙に似ている気がする。

 けれど気のせいだろう。

 僕は一度深呼吸をしてから、丁寧に紙片を開いた。

 そこに書かれていたのは確かに――、
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