僕はオトコに生まれたかった。

□僕はシャカイに呑まれていた。
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 この<世界>では、僕が間違っているのだとわかっている。篠山弌の言葉は、<未熟な高校生である僕>に向けられたもので、正論だ。それを分かっているのに社会勉強を嫌がる僕は、社会勉強なんて押し付けがましいと嫌がる僕は、おかしいだろうか。

 きっと、おかしすぎるほどに、おかしいのだろう。

「ああ!? お前こそ何様なんだよ!」

 僕の呟きを聞き取った此花理々人が、机から身を乗り出して怒鳴った。耳を劈く声に、胸を掻きむしりたくなる。

『今日もお綺麗ですね』

『わたくしのお父様がね、貴方のことをとても気に入っていて……』

『ありがとうございます』

『よければ家に招待したいのだが。娘が会いたいと言っていてね』

『光栄です』

『貴方のお家、あたくしが買い取って差し上げてもよろしくてよ?』

『お気遣い痛み入ります』

 何様だと、言えれば、どれだけいいか。どれだけよかったか。

 下品なほどに真っ赤なルージュと、見るに耐えない際どいドレス。社交場という名の品評会には、むせ返るほどの香水の匂い。そうしてゆっくりと真綿で首を絞められるかのような、言葉の応酬。

 何様だと、

 お前たちは何様なんだと、

 喚いて叫んで詰って罵倒して、突きつけることができたなら、どんなによかったか。

「一つ言っておくよ」

 それでも口を噤んで、笑っていなければならなかった。それが、社会のルールだったから。それに甘んじなければ、あの世界で生きていくことはできなかったから。

 そんなルールすら知らないくせに、よくも社会勉強なんて口にする。

「社会を知るべきなのは――」

 ――君たちだ。

 しかしそれは、言葉として届けることはできなかった。

「おいおい、初日からもめてんのかー?」

「先生!」

「斉先生!」

 僕の両サイドの二人が、まるでヒーローが現れたかのような声で、僕の口を塞ぐ大和斉の敬称を口にした。助かった、と思っているのだろう。重たい空気に包まれた現状を、打破してくれた人間が現れたことに。

「大和……」

 対して忌々しそうに顔歪めたのは此花理々人だ。

 思い起こせば、大和斉はあの日ショッピングモールで此花理々人に、あまり声を大にしてどころか小にしてすら言ってはいけないことを、宣言していた。もし此花理々人がその宣言を言いふらしていたら、きっと今頃大和斉はこの場にはいないだろう。

 此花理々人は案外いい奴かも知れない。

 げんきんな僕は考えを改めかけた。

「先生、千里ちゃんと此花君が……。私は千里ちゃんはこういう子だってわかってるんですけど……」

 まだ馴染みのない人間の目には、本当は怒ってなんかいないのに、ただ理不尽に怒りを示しているだけに映る。という意味合いのことを、和多留ゆいが大和斉に伝える。曖昧なのは、僕が和多留ゆいの言葉をちゃんと聞いていないからだ。

「……なあ、新里」

 不意に、右隣から暗い声が聞こえた。視線をやると、多川仁意が眉を八の字にして俯いていた。

 多川仁意はこの合宿を楽しみにしていたようだから、僕が早々に空気を壊してしまって、落ち込んでいるのかもしれない。

 少しだけ罪悪感を覚えた僕は、「なに?」と声を返した。

「あのな、俺……トイレ行きたいんだ」

 罪悪感は一瞬にして掻き消えた。

「君は……」

「実はずっと我慢してたんだけど、でもほら、なんかさ、皆変だろ? だから、トイレ行きたいなんて言えなくてさ」

「君がさっき、大和斉の名前を嬉しそうに呼んだのは、トイレに行くタイミングが見つかったからか……」

「え? それ以外なにがあるんだよ」

 多川仁意はあくまでも、どこまでも多川仁意だった。

 僕は溜息をついて、僕の両肩からぶらさがっている――いつの間にか僕の背後にしゃがみこんで、両腕をかけていた。――大和斉の両腕の手首のあたりを掴む。視界の端で此花理々人の眉が動いたように見えたけれど、構わずに掴んだ手を思い切り上に突き上げた。

「なんだよ」

「邪魔」

「なんでだよ」

「トイレに行くから」

「…………大丈夫か?」

 大丈夫か、もなにもない。

 大丈夫だ、なんてどこを指して言えばいいのかもわからない。

 だから僕は、大丈夫。

 大丈夫なんだ。

 怪訝そうに首をかしげる大和斉の表情は机の反対側からは見えなかったらしい。唐突に、此花理々人がブフッと噴出し、笑い始めた。

「ト、トイレ宣言って、女子としてダメだろ! 大和すら引いてんじゃん!」

 あははは、と響く笑声に篠山弌が「ダメだよ、理々人」と小さく嗜める。

「俺! 俺なんだって、トイレ行きたいのは!」

 そこに多川仁意が参戦。

 僕を助けようとしているのならば、静かにしておいてくれたほうが余程助けになるのに。

 はあ、と僕は溜息をつきながら立ち上がった。

「誰がどこに行こうが、どうでもいい。とりあえず、多川仁意はトイレに行くんだろ。ほら、ついてってあげるから」

「連れションか!」

 何故か表情を花開かせた多川仁意に、さすがの和多留ゆいもつっこんだ。

「お、多川くん、あまり大声でそういうこと言わない方が……」

 その上少し引いている。

 実に珍しいそのリアクションに、さて多川仁意はどんな反応をするのか、と動かずにいたけれど突然誰かに腕を引っ張られて僕はそれを見ることができなかった。

「ちょっと! 急に、なんだよ、大和斉!」

 ぐいぐいと、僕の腕を引っ張って広間の入口へと歩き出したのは大和斉だった。

「先生!?」

「おい、大和! どこ行くんだよ!」

 驚く和多留ゆい、噛み付く此花理々人、目を剥く篠山弌を尻目に、大和斉はそのまま広間を出た。
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