僕はオトコに生まれたかった。

□僕はイカリをぶつけた。
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 僕が信じて生きてきたのは、僕のアイツへのこの気持ちだけだった。

 この気持ちが、<過去>の辛い記憶に呑まれそうになる僕を支えて、そして<未来>への希望を与えてくれた。

 だから僕は、今、とてつもなく恐怖している。

 大和斉のコイビトが現れたというのに、僕は焦るどころか少しの動揺もしなかった。

 どうして。

 なんで。

 やめて。

 いやだ。

 そう強く願うのは、やはり自分が動揺しなかったという事実に対してだけで、大和斉のコイビトが現れてしまい、なおかつ大和斉が僕から視線をそらしたことなどまるで意に介するようすもない。

 そんなはずはない、と思うのに、記憶が囁いてやまない。

『裏切ったのだから、あり得るだろう?』

 違う。違うのに。違うんだ。

 必死で、否定の言葉を、祈った。

 手に滲み始めた汗を隠すようにギュッと拳を握りしめ、僕は改めて<大和斉のコイビト>と名乗ったオンナ――岬レイコを見た。

 色素の薄く長い髪はゆるく巻かれ、少しタレ目の瞳は黒く大きい。色っぽいという表現が似合うオンナだった。

 こんなのがいいのか。

 という驚きと悲しみが、僕の心を少しだけ癒した。

「ね、イツ君。ずっと探してたのよ? 急に電話もメールも繋がらなくなって……。心配したんだから」

 クルクルと、長い髪を指先で遊びながら、上目遣いで大和斉を見上げ寂しげに微笑む岬レイコ。

 嫌悪感が、僕の身体を駆け巡って止まらない。

「そりゃ、変えたからな。メールアドレスも、電話番号も」

 大和斉が淡々とした声でそう言った。しかしそれは<遮断>ではなく、どこか気持ちを押し殺したような、わざと淡々と話をしているような声だった。

 それに気がつくのは、きっと僕だけ。

 ずっとアイツを愛し続けてきた、僕だけ。

「皮肉……だね」

 軽く唇を噛んで、視線を床に落とす。三足の靴が視界に入った。そのうち二足は<大人>のもの。

「どうして教えてくれなかったの? イツ君のこと、こんなに好きなのに」

「……もう、いいだろ。俺はこれでも仕事中なんだよ」

 大和斉がそう言ったと同時に、なにかひんやりとしたものが僕の背に触れた。それは、大和斉の、手だった。

「大和斉……」

 あまりの冷たさに、思わず名前を呼んだ。けれど、大和斉は表情を微塵も崩すことなく、

「ん?」

 と小首を傾げるだけ。

 何かを隠していることは、すぐにわかった。

 なにを隠しているの。

 どうして隠しているの。

 どうしてなんでもないふりをするの。

 揺さぶり問い詰めたい衝動と焦燥感に駆られ、思わず両手を宙に浮かせた僕を正気に還したのは岬レイコの声。

「ねえ、その子誰?」

 岬レイコのすべてから、<嫉妬>という憎しみが伝わってくる。

 確かに急に目の前に現れたコイビトの隣に、オンナ――と言うのも嫌だけど――がいればその感情は致し方あるまい。と、刹那僕は、まるであのときのような、崖から落ちたあのときのような浮遊感に襲われた。

 気がついてしまったのだ。

 大和斉が、岬レイコと<コイビト>同士だということに。

 岬レイコが大和斉を自分のコイビトだと言ったとき、大和斉はそれを否定しなかった。そして今現在にいたるまで、大和斉は<コイビト>だという事実を否定していない。つまり、それは、大和斉と岬レイコはいまだコイビト同士であるということ。

 僕は、大和斉を見上げた。

 見上げた大和斉は、まるであのとき見た空のように、歪んで見えた。

「おい……?」

 声をかけないで。

「どうした? 気分悪いのか?」

 心配なんかしないで。

 心配するフリなんかしないで。
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