僕はオトコに生まれたかった。
□僕はアクヒツに屈しない。
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大和斉の後姿を茫然と見送った。
教室に戻る間、何も考えられなかった。
あれほど恐れていた大和斉の<遮断>の矛先が、僕に向いたことがあまりにショックで、哀しくて、辛くて。それなのに、涙が一滴も落ちなかったことが不思議だった。
大和斉と出会った当初、僕を覚えてくれていなかったと知った、そのときよりもずっと辛くて哀しい。
こんなことならば、嘘でも礼を言うと言っておけばよかった。
けれど、それは僕の逃げでしかない。僕の選択は間違いなく僕にとって正解だ。もう二度と、同じ間違いは繰り返したくない。どんなに辛くたって、間違った方向へ逃げることは、僕の人生に背を向けるのと同じことだ。
これでよかった。
これでよかったはずなんだ。
そう自分に言い聞かせながら、自分の席に着いた。
持っていた教科書とノートを机の中に押し込み、次の授業のそれらを取り出して、僕はもうなにもかもを投げ出したくなった。
「これは……、今はちょっとクるな」
開いたノートには、汚い字で下品な言葉が書き連ねられていた。
『馬鹿』
『キモイ』
『僕女』
『ウザい』
『消えろ』
辛うじて読みとれるほどの悪筆さで、今までの授業内容が全て覆い隠されていた。
「もうダメじゃん、これ」
ハハハ、と小さく笑いながら、恐らく犯人であろう粟木しずくを一瞥する。
予想通り、粟木しずく達はニヤニヤと笑いながらこちらの反応を窺っていた。
推察するに、先ほど、僕が大和斉と話しているところを粟木しずくかその友人かどちらかに見られてしまったのだろう。完全に僕のミスだ。
「子供だましだな」
そうは思っていても、悪筆と言葉が、傷ついた心を刺激する。
ここで席を立てば、粟木しずくの思い通りになってしまう。
だから絶対に、ここからは逃げない。
そう決めて、僕は使い物にならなくなったノートを机の中に戻した。
とりあえず今日は別のノートに書こう。
そう思って机から別の授業のノートを引っ張りだすと、
「おいおい……」
有難いことに、粟木しずく達は僕の机の中に入っていた教科書、ノート全てにメッセージを書いてくれていた。
よく他の生徒にバレなかったな、と半ば感心しながら取り出した全てのノートを再び机に押し戻して、唯一生き残っていたノートに目をやった。
「生物、か」
無事なのは、僕が教室に戻るまでずっと抱えていた生物のノートと教科書だけだ。とすると必然的に、今日行われる全授業をこのノートに書かなければならないということになる。
「なんか、複雑だな」
まるで大和斉に頼っているような、そんな気になってしまう。
「考えすぎだろうけどね」
小さく呟いて、ノートを広げる。
真っ白なページに次の教科名を書こうとして、手を止めた。
「うーん……これもダメにされたら困るなぁ……」
このノートも落書きされてしまうと、今日の授業は耳で聞いて覚えなければならないことになる。
もう一度、うーん、と唸ってから僕はあることを思いついた。
「落書きだと思わせればいいんじゃないの!?」
幸い、僕は日本語以外に操れる言葉がもう一つある。しかもその言葉を綴る文字は、一般学生にはただの落書きにしか見えない。
流石、僕。
あの時代を生きただけのことはある。
ニヤリ、と笑った瞬間、始業開始を告げるチャイムが鳴った。
ガタガタガタ、とクラスメイト達が席に戻っていく。
生徒と生徒の間にチラチラと粟木しずくの姿が見えて、僕は唇を噛んだ。
負けない。
絶対に屈しない。
大和斉に<遮断>されていても、オマエにだけは、屈しない。
まるで僕の視線に気づいたかのように、一瞬、粟木しずくと目が合った。
授業後、僕はわざとノートを置いて教室から離れた。
十分な時間を置いてから戻り、ノートを確認する。
予想通り、ぐちゃぐちゃな落書きに見えるノートには、なんの悪戯もされていなかった。
もしかしたら自棄になってこんな落書きをしたのだと、笑っていたのかもしれない。
そう思うと、自然口角が上がった。