僕はオトコに生まれたかった。

□僕はテガミに騙された。
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『君は大和斉に相応しくない。私のほうが彼のことを知っている。一度話をしよう。旅館の裏に来て欲しい。――新里千里』

 新里千里。

 確かに、僕の名前だった。

「誰が、こんな」

 ぐしゃりと片手で握りつぶして、ポケットに乱暴につっこむ。地面に投げ捨てなかったのは、目の前の<最低>を前に非常識(さいてい)を重ねたくはなかったからだ。

「誰が、なんてわかりきったこと。多川君に決まってるじゃない」

 僕が裏切られたことが楽しいのか嬉しいのか、岬レイコはくすくすくすくす笑っている。

 薄々気がついてはいたが、岬レイコが僕に敵意を持っていることが、今確定された。もしも岬レイコが僕を、ただの恋人の教え子だと思っているのであれば、その表情は苛立つくらいの憐憫に染まり、意味のない中身もない励ましの言葉を延々紡ぐくらいのことはするだろう。仮にもし、岬レイコがもともとそういうことを言わない人間だったにしても、まだ大して知りもしない子供を嗤うなんてことはしないはずだ。

 嗤う。

 岬レイコは間違いなく、僕を嘲笑っていた。

「ねえ、僕は今機嫌が悪いんだ。それはもうすこぶる機嫌が悪いんだ。アナタのそんな下品な笑顔を見ていられるような気分じゃない。アナタが呼び出したわけじゃないのなら、僕は帰らせてもらう」

「待ちなさい!」

 旅館へ引き返そうとスリッパを鳴らした僕を、岬レイコが引き止める。

 どうしてアナタに命令されなければいけないんだ。そう言ってやろうかと刹那考えたものの、岬レイコの僕への用件はほぼ間違いなく大和斉のことだろうからと、大人しく従うことにして足を留める。

「なに? 正直言うとね、僕はアナタの顔を見ると吐き気がするんだよ。だからなるべく、一秒でも早く終わらせてくれない?」

「……貴方、イツのことが好きなんでしょ?」

 やはりその話を持ち出してきた。

 なんとなく開き直った気分で、岬レイコへ向けて口角を上げた。

「好きだよ、だから?」

「可哀想だけど、イツの彼女は、恋人は私よ」

「まさか、そんなことを言いたいがために僕を引き止めたわけではないよね?」

 そんな釘にもならないものを刺すためだけに、僕の貴重な自由時間を奪う気なのか。――そこでふと、思った。

「ねえ、ご存知のとおり今は自由時間なんだけどね、そのコイビトとは会わないの? せっかく会えたのに? 長いあいだ会えなかったのに? もしかしてここで待ち合わせ?」

 だとしたら、とんだ悪趣味だ。

 ここに大和斉が現れたとしたならば、まさしく背水の陣となる。

「貴方、イツ君を好きなくせに、本当にイツ君のことを知らないのね!」

 勝ち誇った声と表情で、岬レイコがまた嗤った。

「ねえ、イツ君が嫌いなもの、貴方知ってる? 知ってるわよね、当然よね、だって好きなんだものね」

「……魚介類じゃないの。昔食中毒にって」

 今は食の好みの話などしていないけれど、僕が知っている現世のアイツの嫌いなものはそれしかない。

 なのに、それなのに、それすらも、

「貴方、ほんっとぉになぁんにも知らないのねぇ! イツ君が嫌いなのは、魚介類じゃないわ」

 ――否定された。

 それはすなわち、大和斉に、ウソをつかれた、ということ。

「な……んで」

「確かに実際、魚介類を食べて寝込んだみたいだけどね。でも違うわ。イツ君が嫌いなのは、水場よ」

「水場って……そんなもの嫌ってたら、生活なんてできないだろう」

 お風呂にも入ることも、ただ飲むことも、手を洗うことも、なにもできなくなる。けれど、大和斉が水を飲むところ、手を洗うところを僕は見ている。

「私が言っているのはそういうことじゃないわ。イツ君はね、プールと海は絶対に行きたがらないの」

 泳げないということだろうか。

 けれどそれで、どうして今、僕が大和斉のことを知らないという確信が持てたのだろう。

「あそこにほら、湖があるじゃない。だから、いっちゃんがここに来られるわけないのよ」

 湖に近づけない。それは思いのほか、僕の心に深く突き刺さった。そのことで感傷に浸ってしまう前に、慌てて首を振って頭をはっきりさせる。

 岬レイコの前で、堕ちてしまうわけにはいかない。

「大和斉は水場が嫌い。アナタが大和斉のコイビト。それから? 僕に言いたいことは、それだけ?」

 あくまで毅然と。

 敗者としての戦いであろうと、勝者のごとく毅然と岬レイコに相対する。負け惜しみ、悪あがき、なんと思われようと構わない。

「……イツ君は、絶対貴方になんか振り向かないわ」

 唸るように吐き出された言葉に、今度は僕が笑う番だった。

「振り向かないのは知ってるよ。誰かのものになるんだってことも、誰かのものになったってことだって理解して経験して、僕はまだココにいるんだ」

 だからこそまだココにいる。

 だからこそまだココにいたい。

「僕のことを牽制せずとも、すでにアナタは大和斉のコイビトだ。僕に振り向かない、そう断言できるほどにアナタたちが愛し合っているのなら、大和斉はアナタを裏切らない。アナタが裏切らない限りは、アナタを裏切らない」

 きっとアイツは、嘘をついてでも裏切りはしないだろう。

 それが相手にとって残酷なことだと知っていたとしても、気づかなければ嘘は誠のままだとでもいうように、優しく罪深い嘘をつき続ける。――自分の幸せを、犠牲にしてまでも。

「僕はそれを知っている。それだけは知っているんだ。この世界の誰よりも、あの世界の誰よりも……」

 つまりはもちろん、

「岬レイコ、アナタよりも」

 月明かりが照らす岬レイコの瞳は、キラキラと輝いていた。見ようによっては美しいとも言えるその煌きを覆うのは、岬レイコ自身の醜い声。

「何が……なにが、ナニがナニガナニガ、貴方ごときに、貴方ごときに貴方ゴトキにイツ君の、イツのナニガ、ナニガわかるって……ッ」

 バッ、と岬レイコが僕を視たと思ったその瞬間、

「なにがわかるって言うのよぉぉぉ!!」

 悲鳴にも似たその声に押されるように、否、実際押されたのだろう、僕は不自然によろめいて、崖から足を踏み外した。

「千里ぃぃぃ!!」



 セカイは、オチル。



 ――to be continued...
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