ぎゃくせつ

□17、チェス
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個室に引き込まれた際に掴まれた腕が鈍い痛みを訴える。
ラベンダーの芳香剤の濃い香りが鼻孔を刺激する。
帝王の吐息が、耳に掛かってくすぐったい。

と、いき……?
視線をずらすと、帝王の端整な横顔が間近に見えた。

鼓動が激しく鳴り出して顔が赤くなる。
先程までは手洗い台から出てきた生き物に集中していたのに。
今は帝王を意識している。

ドクドクと鳴る心臓が五月蠅い。
このまま放っておいたら壊れてしまいそうだ。


「っ……ていお……」
『黙れ』


短くそれだけ言われて後ろから口を塞がれた。
帝王が外の音をよく聞き取ろうと俺を押す為、ドアに額がくっつく。
多少は気遣っているのか、抱き寄せる様に腰に腕をまわされた。

黒髪がさらりと首筋を撫ぜる。
窮地に追い込まれている筈なのに、胸がざわつく。

肌に息がかかる度に帝王が生きていることを実感する。


『来たか』


帝王のその言葉で、現れた生き物の気配にようやく気付く。
物音ひとつ耳に入らなかったのは、やはり気が散っていたからだろうか。
俺は何をしているんだ。

身の危険が迫っているのにこんなことじゃ駄目だ。
気を引き締めなければ。

コツン、コツン、と靴と床がぶつかる音が女子トイレの内部に響く。
実際に体験しているからか下手な怪奇小説よりも怖い。
幽霊や呪い等の類より格上だ。


「っ……!?」


足音が絶える。
帝王と俺が隠れているこの個室の前だ。

どうする、どうする……。

俺は出来損ないだし、帝王はあまり強力な魔法は使えない。
彼の場合、俺の魔力を吸うなり操るなりで魔法を使うことはできる。
ただそれをするとどちらも酷く疲れてしまうのだ。

この状況でそんなのは自殺行為以外の何物でもない。
それに、帝王に負担をかけるのは嫌だ。

どうしよう、どうしよう、どうしよう……。

喉がからからに乾いているのが嫌というほど分かる。
どんな行動をとればこの危うい状況を打破できるんだろう。
実行不可能な案ばかりが浮かんでは消えていく。


『来い、バジリスク……早くしろ』


姿なき声によく似た冷たい声がトイレに反響する。
恐怖からか、帝王の胸元のローブを握り締めた。

何も良い打開策が浮かばない為じっとしてやり過ごすことにする。
本当はこれが一番いいのかもしれないが、俺の頭はまだ冷静じゃない。
今にも個室を飛び出して行きそうだ。


『御主人様……人間臭いです……』


今度は別の声。
いつの間に現れたのだろう。

いや、それよりも。
二つめの気配、人間臭いだって……?
それは俺たちのことか?

得体の知れないものに見つかるかもしれない。
ますます恐怖感が募り、帝王のローブを握る手に力がこもった。

コツ、コツ、と再び足音が響く。
ひとつめの気配が少しずつ個室の前から離れていった。
不安感が薄まる。


『近くに管理人の猫がいる……殺せ』


管理人の、猫。
もしかしてそれって……。


「……っ」


ミセス・ノリス?

名前と共に昨年度の記憶が蘇る。
賢者の石を盗みに行く前の荒みきった精神を、あの猫は癒してくれた。

これは……助けるべきか。
だがそんなことをすれば俺が標的になるかもしれない。
帝王にまで被害が及んだら?

でもだけどと思案を繰り返す。
結局、手洗い台が再び動き出すまで俺は帝王のローブを掴んでいた。

廊下から猫の鳴き声が聞こえても、反応しなかった。


(こんなに情け深かったかな)

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