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□Home Sweet Sweet Home
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 ほんの少しだけ、このままで、このまま手を繋いだままで、どこまでも歩いていきたいと思ったのは秘密にしておこうと思う。

 
 事務所の戸締まりはしたけれど、電気は消し忘れて出かけてしまったようだった。
 かもめビリヤードはもう閉店していて、その店の前から事務所を見上げると、明かりがついているのが見えて、僕の不手際には違いなかったけど、それでも明かりのついた部屋に戻れることに安心した。
 いつもどおり翔太郎が鍵を開けてくれたけれど、部屋の中に入ると、ぎゅっと一度だけ強く手を握って、そして離してしまったから、僕は何も言わずにコーヒーを淹れようかとキッチンへと向かう。
 ハットを帽子掛けにかけて、ソファに座ったのが気配でわかった。
「心配した」
 コーヒーを淹れるのは大抵翔太郎なのだけれど、翔太郎の様子がやっぱりいつのどおりではないから、何も言わずに、僕は翔太郎がいちばん気に入っている豆を取り出しながら、背を向けたままそう言った。
「……翔太郎?」
 聞こえていないはずはないのに、何も言わない翔太郎が不自然だった。少しだけ不安になって、名前を呼びながら振り返ると、ソファに座ったまま、まっすぐに僕を見つめている翔太郎と目が合った。……深い目の色。瞬きすらせずに、見つめ合う格好になって、でもそれは翔太郎のかすかな笑みで解かれた。少しだけ緊張が解けて、知らず息をつく。息をついてから、自分が思っていたよりも緊張していたことに気がついた。
「心配したよ、翔太郎。何が」
「俺がコーヒー淹れるよ」
 何があったんだい、と聞こうとした言葉を遮って、翔太郎が弾みをつけて立ち上がった。酔ったそぶりも見せずに横に並んで、取り出した豆とフィルターを奪い取る。ゆっくりとした手つきでコーヒーを淹れる準備をしながら、聞こえるか聞こえないかくらいのかすかな声で、ふたりぶん、と翔太郎が確認するようにつぶやくのがわかった。
 それ以上は何も言わなかったから、僕も何も言わなかった。
 何かあったのだろうことは想像に難くはなかったけれど、どう聞けばいいかわからなかった。
 ふたりで何故か、静かな音を立てはじめるサイフォンを眺めて。
 時計の秒針の音だけが、奇妙に響いて。
 なんとなく、頭の中で、その秒針の音をカウントしていた。
「……心配かけて、悪かった」
 静かな声に、ただ黙って首を振った。
 沈黙が降りて、翔太郎が苦しそうに息を吸うのがわかって、一瞬の間のあと、あ、泣く、と思った。それがこみあげてくるものをこらえる息づかいなのがわかった。
 
 いつか。
 いつか、永遠に会えなくなるとわかって、でもそうするしかなかった、あの瞬間の息づかいだった。
 あの。
 ……僕が消えてしまう直前の、翔太郎の。

「……俺、俺さ……」
 仰向いた顎のラインがリアルで、近くて、それが懐かしかった。
 まだ、懐かしいと思う時間しか経ってなかった。……僕が戻ってきてから。
 翔太郎の声が震えていて、でもどうすればいいかわからなかった。唇を噛んでうつむいてしまった翔太郎にどんな言葉をかければいいのかわからなかった。
「俺、駄目だ……苦しい……」
 懸命に言葉を紡ごうとして、でも、こらえるものが大きすぎて、なかなか言葉にならないみたいだった。
「お前、お前が……フィリップが」
 途切れる。
 どうしよう。
 翔太郎が泣いているのが苦しくて胸が痛かった。
「……僕がいると、苦しい?」
 翔太郎がうつむいたまま、迷うように、少しだけ間をおいて首を振る。
 その逡巡で、わかった気がした。
「翔太郎」
 名前を呼ぶと、ゆっくりと目を上げて、僕を見る瞳。いつしかコーヒーの濃い香りが漂ってきていて、頭のどこか遠くで、また、懐かしいと思う。
 そして。
 
 もうどこにも行かないと思う。

「そうじゃなくて……ただ、お前が、また」
「また……?」
「また、消えるかもしれない、て、思うと」
「思うと?」
 切れ切れの言葉を、まるで一緒に紡ぐみたいに。

 もう消えないと決めた。
 決めたんだ翔太郎。
 僕は、もう、消えないんだ。ずっと。永遠に。ここに。

「それが……それが苦しいんだ……」
 そこまでやっとつぶやいて、またうつむいて。
 たぶんきっと少し落ち着くようにと、翔太郎は大きく息をしてから。
「……だから帰れなかった。仕事、終わって、亜樹子と別れて、夕飯何にしようって、そう思って」
 うん、とうなずいたら、ちらっと目を上げて、やっぱりまだ苦しそうに微笑って。
「突然思ったんだ。……もしかしたら夢かもしれないって。自分に都合のいい夢を見てるだけなのかもしれないって。夕飯の買い物して、事務所に戻ったら、真っ暗で、やっぱり誰もいなくて、お前が、フィリップが帰ってきた夢を見てるだけなのかもしれないって」
 繰り返される夢。
「そんな夢、数え切れないほど見たんだ。お前がいない間に。……戻ってきたって喜んで、それ、それ全部夢なんだ何度も何度も」
 思い出したのかまた瞳が潤む。  
「そのたびに俺……っ」
「翔太郎」
 もうどうしようもなくて、そんな痛い告白をもう遮るしかなくて、僕は翔太郎の手をとる。
 それでも、何を言えばいいのかわからなくて、迷う。
 迷って、迷って、何を言えば翔太郎が泣かなくてすむのかと迷って。
 ぎゅっと手を握って。
 迷って、最後に。 
   
 いちばんかんたんなことばを。
 ちゃんともどってきたから。
 もうどこにもいかないから。
 だから。

「ただいま」

 翔太郎の目をのぞきこむようにそう言うと、少し驚いたみたいに目を丸くして、そして目を強く閉じて。
 まるで意地っ張りな子どもが、今更泣くのを我慢するみたいに。
 
「……お、かえり……っ」
 少ししゃくりあげるような調子で、本当に子どもみたいだった。
「うん」
 握った手が、強く握り返される。
「フィリップ……っもういっかい」
 仕方ないなぁ、と笑って、それでも、僕はその言葉を繰り返した。手を握ったまま。
「ただいま、翔太郎」
「……もう、いっかい」
「ただいま」
「もっと言って……?」
「ただいま」
 何度もそれを繰り返して、その繰り返しにとうとうふたりして笑いがもれた。
 くすくすと笑いながら、不意に僕の肩に、翔太郎が額をつけて。
 小さく、囁かれた言葉に、もう一度僕は声をたてずに笑った。
 かすかに。翔太郎の、あの強い声で。

 
 おかえり、と。





Fin./20110830

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