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□Home Sweet Sweet Home
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遠くから鳴り響く音に、まるで水底からゆっくりと浮き上がるみたいに、僕の意識が覚醒した。
いつのまにか眠ってしまっていたらしい。
翔太郎のデスクで鳴り響く電話の音。
夢かと思って身を起こして、ぼんやりしたまま数秒間、それが何を響かせているのか認識できないまま眺めて、そのまま、さっき22時半をさしていた時計を見遣って、そしてやっと。
「……っ!」
0時11分。
今度こそ起き上がって、部屋のなかを見回したけれど、誰も、自分以外の気配はなかった。どこにも。
明るい部屋と、ローテーブルの上に、さっき自分が淹れて飲んだコーヒーの残り。
留守番電話に切り替わらず、いつまでも鳴り響く電話を眺めて、おそるおそる電話の前に立ちつくした。
さすがに遅い。
こんな時間まで、翔太郎が何の連絡もなしに帰って来ないなんておかしすぎた。
しかも、こんな深夜に鳴り続ける電話。
不自然な格好で眠ってしまっていたのだろう、うまく腕が上がらず、受話器を取ろうとしてもうまく動かなかった。
でもそれが言い訳で、ただ迷っているだけなのもわかっていた。
何か悪いことでも?
いや、とその考えを打ち消して、なんでもないような動きで受話器を取って耳に当てる。
「……はい」
でもその声が、少し緊張しているのが自分でもわかった。
翔太郎。
翔太郎に何かあったのか。
「あー……フィリップか?」
聞き覚えのある声に、少し安心して、でもそれでも安心しきることはできなかった。
「刃野さん?」
「まだ寝てなかったか。よかった」
その声の雰囲気で、悪いことが起きてないことだけはわかった。
いつもよりも少しだけ困っているようなどうしようか迷っているような声色。あぁこういうのを途方に暮れたような、って言うのかな、となんとなく思う。
「今、翔太郎と一緒ですか?」
「あー……まぁ一緒っちゃ一緒というか……フィリップ、今から署まで来れるか? タクシー代は払うから」
歯切れの悪いその言い方に、戸惑いながらも、すぐ行きます、とだけ返事をして電話を切った。
風都署の前で刃野さんが待ち構えていて、タクシー代を払ってくれた。
「わざわざ来てもらって悪かったな」
風都署の入り口に続く階段を昇りながら、いつもと変わらない調子で刃野さんが僕に話しかける。
「翔太郎が繁華街で酔いつぶれたみたいでな」
「酔いつぶれた?」
きっと目を丸くしただろう僕に、刃野さんも困ったように首をすくめる。
あのハーフボイルドのくせにハードボイルドを気どる翔太郎が酔いつぶれるなんて、少し、意外と言えば意外だった。しかも外で、なんて。
「そうなんだよなぁ。……で、間の悪いことに、柄の悪い連中と行きあったみたいでな、ちょいとまぁ……喧嘩みたいになって通報、オレに連絡、とまぁそんなわけよ」
「喧嘩?」
更に翔太郎に似つかわしくない単語が出てきて、それにも驚いた。
指で、こっち、と指し示しながら、署内を迷うことなく案内してくれる。目の端々に、普段なら興味深いと思うような様々な何かがあったが、今はそれどころじゃなかった。
「本人は至って元気。ひとりで帰れるからフィリップには連絡するな、って、その一点張りだったんだが」
透明なドアの向こうに雑然とした空間があって、たぶん刃野さんのデスクなんだろう、その椅子に翔太郎がぼんやりと座っているのが見えた。足を投げ出して、それだけじゃなくて、どこか投げやりな雰囲気で。
どうしたんだろう、と一瞬足を止めてその姿を眺めていたら、翔太郎のほうも少し視線を彷徨わせて、そのまま僕に気づいて、驚いたように目を見開いた。
……見開く?
「フィリップ……!」
立ち上がって、椅子ががたん、と音を立てたのが、ドアのこちら側まで聴こえてきた。閑散としたドアのあちら側にいたひとが、眠そうな目を上げる。
どうしてそんな声で僕を呼ぶんだろう。
……来て欲しくなかったから?
重いドアを開いて、翔太郎、と声をかけると、もうそんな勢いで僕の名前を呼んだことが、まるでなかったことのように普通の顔をして、椅子に座り直していた。
「どうしたんだい翔太郎? 君らしくもない」
僕を見上げる翔太郎の左の頬に擦り傷があって、そこが赤く痛々しかった。そうっと指で触れると、痛そうにしたからすぐに指を離す。唇の端にも、血の跡があった。
「ちょっと……飲みすぎちまった。……悪いな。こんなところまで迎えに来させて」
別に構わない、とつぶやいたけれど、白く光る明かりが皓々と僕たちを照らしていて、落ち着かなかった。
早く、ここじゃないどこかへ、僕たちの居場所へ戻りたかった。帰りたかった。
「ほんとになぁ、加減しろよ?」
刃野さんの、事情も何もわからないなりに気遣ってくれるその口調がありがたくて、ふたりで、じゃあ帰ります、と頭を下げて、また、さっき入ってきたばかりのドアを開けた。
……事情なんて、僕にも、何もわかっていないのに。
翔太郎と、肩を並べて、ふたりで。
「悪ぃな、ほんと、真夜中にこんなところまで迎えに来させて」
翔太郎、と、名前を呼ぶ。
風都署を出ると、さっきの切羽詰まったような様子は何もなかった。いつもどおりの翔太郎だった。……ただ、いつもどおりなのが不自然な感じで。
なんとなく事務所の方向へ足を向けて、歩きながら。
「あ、夕飯、作る予定だったのにな。もしかして何も食ってねぇ?」
翔太郎、と、もう一度名前を呼ぶ。
ごめんなつい飲みすぎちまって帰ったらなんか作ろうな俺も小腹が空いたしなそれとも何かラーメンでも食って帰るか。
「翔太郎!」
少し強い口調で、その名前を呼ぶと、びくりと身体を震わせてうつむいて足を止めて、そして言葉も途切れたから、少し強く呼びすぎたかと思う。だから一瞬反省して、それでも。
「翔太郎、何があったんだい?」
翔太郎の真正面に立ってそう言ったけれど、かすかに首を振って。
「何もない」
苦しそうに僕を見て、小さく息をついた。
「………も、いい?」
「何?」
囁くようにつぶやかれた言葉が、翔太郎らしくないようで、翔太郎らしいようで、迷ったけど。
でも、そうしないわけにはいかなかった。
でも、本当にそうしたいのは僕だった。たぶん。
いいよ、と言うかわりに、僕は手を伸ばして。
するりと指を絡めた。
乾いた手。
「……さんきゅ」
空気に今にも溶けそうな声色で、翔太郎がそう言って、僕は無言で首を少し振った。
ぎゅ、と指に力が込められる。
それに応えるように握り返して。
……手ぇ繋いでもいい?
ちゃんと聴こえてたんだ。だから。
翔太郎。
夜の道を手を繋いで、僕たちは。
あの家に帰るんだ。
ふたりで。