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□Home Sweet Sweet Home
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翔太郎が帰って来ない。
事務所を入ってすぐのところに置いてある、赤い革張りのソファに寝転んで本を読んでいた僕は、何度目かにそう考えて、仰向けになった。
ソファから見えるおもちゃのような時計の針は、もうすぐ22時半を刺そうとしていた。
胸の上に置かれた本は、ここに戻ってきてすぐに照井竜に検索を頼まれた案件の関係のもので、それだって別に「目を通」さなくてもいいのだけれど、なんとなく、何かを目で追っていたい気分だったというだけ。
ただそれも。
……翔太郎が帰って来ない。
ふとそんな考えが頭の片隅をよぎってからは、ページも進まなかった。内容だって特にたいしたものではないから尚更。
「何してるんだろう……」
ぼんやりと思考していたことを、どうやら無意識のうちにつぶやいていて、自分で驚いた。それ以上本を読み進めるのは諦めて、立ち上がって開け放してある窓の外を眺めた。
昼間は暑かったのに、夜になると少し空気が秋の気配で、エアコンも要らないくらいだった。
階下から響いてくる、かもめビリヤードの懐かしい喧騒。
以前は、煩いばかりだと眉をひそめることだってあったのに、今はその喧騒にも唇の端が緩むようだった。
やっと、帰って来れた。
ここに、風都に。
……翔太郎の、そばに。
永かったなぁと思う。本当にそう思う。
でも、どれほど時間がかかったとしても、自分が戻らないわけにはいかなかったのだ。
それが約束だったから。
翔太郎と、そして自分との。
むしろ、再構築が1年で完了して、それは幸いだったと思う。
進まない再構築(当たり前だ。出来上がっているものを一度全て壊し、そしてそれをまた組み替える作業に時間がかからないわけがない)に苛立って、それでも何よりも先に再構築し終えた両眼で世界を見て、自分に、伸ばす腕がないことに、駆け寄る脚がないことに、届く手がないことに、泣いて怒って、何よりも、幾度となく呼ばれる声に応える声がないことが苦しかった。ただ、自分の気配だけ部屋に残して、かすかな風だけでも翔太郎が感じられるように祈って。
いつも。
もし再構築が叶わなかったと思うと、それだけで胸が痛くなる。
翔太郎の最期の一瞬にさえ間に合わなかったらと思うと。
あの絶望を抱えたまま、消えてしまうのかと。
「なのにさぁ……」
また独り言だ。
少し笑って自分を戒めて。そして。
翔太郎、君はどうして帰って来ないんだい?
心のなかだけでつぶやいた言葉が、思っていたよりも不貞腐れているように聞こえて、少し可笑しかった。
そんなのは、構ってくれないからと拗ねる子どもみたいだと思って。
……帰って来ないはずがないから。そんなはずがないことは、自分がいちばんよく知っているから。
「でもおなか空いたなぁ」
窓枠にもたれたまま、月のない空を見上げる。
月に光の欠片もなくて、今夜は新月だっただろうかとふと思った。小さくいくつかの星だけが見える。
本に集中していたときには気にならなかったが、さすがに昼過ぎに翔太郎が淹れてくれたコーヒーと依頼人からもらったというケーキを食べて以降、何も口にしていなかったから、それも当然だった。
夕方には少し早いくらいの時間帯に亜樹ちゃんと出て行ったんだっけ? 確か、捜査の終了した事件の依頼人に挨拶に行くとか行かないとか。
すぐ戻ってくるからな出歩くんじゃねぇぞ、って言ったのはどこの誰だったっけ?
少しだけ笑いがもれる。
亜樹ちゃんに促されてトレードマークになっているハットを被りながらそう言って、長々と、家にいるときはどうこう、と話し始めたものだから、亜樹ちゃんにスリッパではたかれて引っ張られながらも、また念を押すようにそう言っていたのに。
亜樹ちゃんが夜遅くまで出歩くことはないだろうから、もう別れているはずだけど……もしかして、刃野さんとかに会ってつきあわされてるのかもしれない。
相変わらず……ハーフボイルドは相変わらずらしい。
まぁ……僕が帰ってきてからずっと構ってくれていたから。
空腹くらいは我慢するかな。
そう考えて、僕は窓から離れ、コーヒーを淹れようと琺瑯のやかんを火にかけた。