彩加のひとしずく(更新中)
□壱
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彼女に促されるがままエントランスに足を踏み入れると、そのまま受付のような場所まで誘導される。
そこで当然のように料金を請求してきた彼女に、ここがなんなのかもわかっていないナツは閉口した。静かにカバンの底にあったがま口を開いても、全財産は提示料金の半分にも満たない。
さすがに気まずい雰囲気を感じながらも、腹をくくって女性に白状することにした。
「グレイが入ってったから見てだけなんだ。アイツ全然ノッてこねーし、なんか分かっかなーって」
「グレイ? ああ、そういえばその制服……なるほどね」
あいつなにも話してないだろうしね。そう呟いて苦笑した彼女は、楽しげに目を細めた。なにやら含みのある視線でナツの頭から指の先まで見定めて、ひとつ頷く。
「グレイのクラスメイトなんだろ? なら見ていくと良いさ、今回は特別にサービスするから」
「見てくって、ここなんなんだ?」
「それは見てのお楽しみ。ただ、代金代わりに少し頼まれてほしい」
半分にカットした座席券を差し出され、ナツは反射的に受け取った。凝ったデザインのそれを見ると、『My Fair Lady』と題打たれた劇の開演時間が書かれている。
劇?
それがグレイになんの関係があるのか、いまいち結びつかない。ここでバイトでもしているのか。
彼女はナツの疑問が手に取るようにわかるのか、少し愉快そうにしながらその“頼みごと”を口にした。
「別に仲良くしてくれなくても構わない。でもアイツの無関心を真に受けないでほしい、あれは怖がりなだけなんだ」
なんと返せば良いのか迷うナツの肩に触れ、彼女は受付隣にある重厚な赤いドアを指さした。
「きっと、ここでのグレイを見ればわかる」
導かれるままドアを押し開けたナツは、目の前に広がる一面の赤に瞠目する。
上品な赤が規則正しく並ぶ半円状の観客席に、奥で存在感を放つ閉じられた濃紺のカーテン。長いステージの上すべてを覆うそれに、ナツはここが劇場だということをようやく実感した。
座席券を見た時点でなんとなく予想はしていたのだが、実際に演劇のための劇場に入ったのは初めてだ。他を知らないために広いのかは判断できないが、観客席の広さは学園の体育館程だろうか。素人目には立派な劇場に見える。
とにもかくにも、券を貰ったからには見ていくしかない。ここまで来てグレイの秘密(だと勝手に断定した)を知らずに帰るわけにもいかない。
妙な使命感に駆られ、ナツは券と座席に書いてあるナンバーを必死に照らし合わせて自分の席にたどり着いた。前から四列目のステージ正面席。そこがいくらする座席なのか知る由もなく腰を下ろすと、ようやく人心地がつく。
壁にかけられたレトロな時計を見上げると、まだ開演までは一時間以上ある。余裕があると気が緩むのが人間というもので、更に言えばナツに慣れない場所での緊張などはない。
暇を潰す手段もないナツは、早々にシートに頭を預けた。人が集まれば勝手に目覚めるだろう、わざわざ何もしないで待っている必要もない。
瞼を下ろしたナツの脳裏に、いつもつまらなさそうな顔をしているグレイの姿が浮かぶ。
ここで、彼はいつもどんな顔をしているのだろうか。
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