牙を抱く男(完)
□第四章
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【第四章】
波の音が聞こえる。
どこかで誰かが、自分を抱きながら歌を口ずさんでいる。楽しげなメロディに感じる哀愁に、これが懐古の情なのだと思い出した。
柔らかい腕の中でその人を見上げても、輪郭がぼやけていてどうしても見えない。それがどうしてか耐えられない程に悲しくて、赤ん坊の声で泣き叫んだ。
とらないで、けさないで。
だがその人の輪郭はみるみるうちに溶け、歌も消えて波の音しか聞こえなくなる。
取り残された砂浜で、腕を伸ばした。
「かえせ」
ぽつりと呟いた自分の声で、グレイの世界は色を変えた。
青空は目透かし天井板に、砂浜は柔らかな布団と目の詰まった畳に。風は襖と障子に遮られ吹かず、転がっていた石は壺に変わっている。
鼻腔をくすぐるイグサの香りに、あの海辺が夢だったことをようやく知った。
やけに重い体を布団の上で起こすと、品の良い和室を見回す。床の間に飾られた掛け軸と壺は、グレイの目利きが間違っていなければかなりの品だ。自分が寝巻きに着せられている浴衣も、一般家庭が手を出せる物ではない。
布団の傍には買い出しの際持っていたバックが置いてあり、監視がいないことからもこの屋敷の主の意向が窺える。それでも傍にロキがいないことが不安を駆り立てた。
最低限の持ち物を懐に入れ、力の入らない足を叱咤して立ち上がる。光が透ける障子に近づき耳を当てると物音は聞こえず、薄らと開き外を窺った。
典型的な日本家屋らしく、廊下の向こうに広い庭がある。秋の紅に染められた美しい朝の景観だが、今は心揺さぶられない。
障子から頭だけを出して左右を見ると、人影はないようだった。逃走を考えるが、手足の萎えに早々と諦める。どうやって連れて来られたのかは知らないが、体が重いことから薬でも使われたのだろう。
だがここがどこか知らない限りなにも始まらない。特に警戒もなく廊下に出て、グレイは気ままに邸内を歩き回った。
いくつ目かの角を曲がり、ようやく住民との遭遇を果たす。最初から見つかることが目的だったのだが、その相手が少々意外でグレイは目を瞬かせた。
「あ、グレイ君目を覚ましたんだね。お腹は空いてる? 良かったら朝食を運ばせるけどどうする?」
「あんた、随分と様になっているな」
グレイを見つけてくれたのは、柔らかい印象を受ける女性だった。首にスカーフを巻き、タイトなスーツを身に纏っている。
一見女性にしか見えないが、グレイは彼女を知っている。
美しく縁取られた大きな瞳を、彼女はふわりと細めた。
「凄いなぁ、もうわかったの? 体格とか声も変えてるから、そうそうバレることはないと思ったけど。あ、言っておくけど趣味じゃないからね」
涼やかな声音から一変、低い声で彼女は言った。無造作に伸ばした手で鬘を取り、取り出したメイク落しで化粧を拭き取る。するとそこにいたのは女物を着ただけの男で、グレイの知る人物だ。
彼、ヒビキは上品に微笑む。
「どうして変装だってわかったの? くびれ作るのにも苦労してるのに、なんだか悔しいな」
「背の高さは普段シークレットブーツを履いておけば良いし、くびれはコルセットかなにかだろ。その他も、変装の知識さえあれば見破れる」
いくら姿形、声を変えても人間はその根本を偽ることはできない。人の本質を見抜き、磨くグレイに変装は通用しないのだ。
それよりも、とグレイは長く息を吐く。
「あんたからは罪悪感や愉悦の情を感じなかった。よっぽど訓練されてんだな」
グレイがロキから引き離され、見知らぬ場所で目覚めた。それが意味することは捕縛に他ならない。ここにヒビキがいるのなら彼の仕業だろう。
亘理の別邸出奔前、グレイはヒビキと会っている。付き合いの浅い自分はともかく、同僚であるロキを裏切るにしてはヒビキは平静すぎた。
彼は首を傾げ、グレイの言葉を否定した。
「そりゃそうだよ、特になにも感じていなかったんだから。君達のことは好意的に思ってるけど、EPPは本職じゃないし割り切れる。あ、さすがにロキを殺したりはしてないから安心して」
「……待てよ、まさかここは」
「ああ、言ってなかったかな?」
ロキの無事に安堵すると同時に、嫌な予感にグレイは唇を引き結ぶ。ヒビキは紅茶を差し出す時のようににこやかに言い放った。
「ここは来縞組、僕が絶対を誓う家族さ」
それは今、一番消したい可能性だった。
無意識に両足に体重をかけたグレイの腕を、ヒビキが自然な仕草で掴む。後退しようとしたのを先回りしたのなら、この男にグレイが体技で勝てる見込みは無い。
ならば。
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