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陰りゆく世界と、君の声[7]


20.
タクシー代と、傷の治療費。
虚ろな眼差しで下ばかりを見据える高杉の手に、土方は握らせた。
下はともかく、血染めの半身にバスタオルを羽織っているだけなど、怪しまれることこの上ない。夜闇に紛れて帰ろうにも限界がある。
せめてもの償い、なわけがない。面倒事を避けたいだけだ。

「ちっと歩くと、タクシー乗り場があんだろ。そこで拾えや。なるべく性欲の欠片もなさそうなジジイを狙えよ。これ以上犯されたくなかったらな」

ふっと嘲笑の息を耳に吹きかけられるも、高杉は何の反応も示さない。まさに抜け殻だった。
おいおい勘弁してくれよ、途中で倒れないでくれよ、と土方に背中を叩かれて、前のめりになる。
その行為を繰り返しながら、やっと玄関先まで足を運んだ。
高杉の身体を片手で支えつつ、土方は鍵を開ける。

「ほら、お前の言うとおり帰してやるよ。ぎんとき、て奴、お前の姿見たらどう思うかな。はは、想像したら面白そうだな」
「……っ」

高杉が微かな反応を示す。喉を引きつらせたような音が聞こえると、ふらふらと土方に向き直る。
絶望的な涙をこぼし続ける目が、こんなことをされてもなお、土方に対して希望を見出そうとすがっているのが分かる。

「土、方は……」
「なんだよ」
「ずっと、そんな目で、俺のこと……」
「そんな目って?」

軽蔑の眼差しを絶やさない。口にすれば辛いことを、敢えて相手に言わせようという土方の加虐心からだった。

「狂人…だとか……」
「ああ、狂人だなあ」
「病気、とか…っ」
「その通りだろ。見てみろよ、今の自分を、鏡で、目ん玉剥き出しにして」

そう言い放たれた高杉は、悲痛の表情を張りつかせたまま硬直している。
土方は高杉の両頬を3本の指で挟み、引き寄せた。


「お前なんて、ぶっちゃけ何の価値もねえ人間だよ」


その時の高杉の表情は土方にとって、あまりに傑作だった。
こういう顔をする奴が一番苛め甲斐がある。
高杉がとめどなく涙をあふれさせるように、自分も腹の底から笑いが込み上げてきて止まりそうにない。

「酷、いよ…っ」
「本当のこと言ってやっただけだろうが。親切っていうんだよ、こういうのは」

酷い、酷い、と嗚咽の中で繰り返す高杉に、土方は徐々に苛立ちを募らせた。

「うぜえよ、お前」

ドアを解放して、高杉を外に突き飛ばす。間髪入れずに、拒絶をこめて思い切り閉めた。
高杉は壁に打ち付けられたせいで痛みが犇めく中、バスタオルを握り締め、自分の顔に押しあてる。
地獄の門の奥で、笑いながら叫んでいる男の声が聞こえた気がしたが、それよりも自分の心中の叫びのほうが大きすぎた。

とうとう、この世でたった一人の友人さえも失くした。

嗚咽が漏れて行き、最後は弱弱しい泣き声を布一枚で懸命に抑えていた。
闇が外に流れて行かない。

銀時はここにはいない。呼んでも、助けに来ることは不可能なのだ。
彼が死んだ人間なのだということを、こんなにも痛感したのは初めてだ。
このまま一人骸となってしまっても、誰にも気づかれずに、当たり前のように日常は過ぎていくだろう。

銀時は今もあの壁の中でお腹を空かせ、帰りを待ってくれているだろうか。
いや、もういないかもしれない。
元々ずっと一緒にいるのは不可能な関係なのだ。
それを、変に夢見てしまうものだから。

「銀時…」


21.
銀時は打ち震えた。死を乗り越えてから感ずることのなかった、虫の知らせというやつだ。
光の世界を覗いてみるが、高杉はいない。彼は友人宅の床についているはずだから。
(おかしい…傷が痒いな)
手当てを受けた包帯の上に爪を立てる。死してなお痛みはあっても、痒みは初めてだ。
壁の世界でかろうじて生前の肉体を保っている銀時は、引っ掻いた部分が出血した途端、首を擡げた。

「晋助?」

不意に気持ちが騒いだ。
点滅の信号が赤に変わろうとしているのが分かる。
何の根拠もない衝動に、銀時は汗がひいていく感覚を覚える。

晋助が呼んでいる。

なぜだろう。その声がどんどん弱弱しくなっていくのが分かるのだ。
(どうする…)
銀時は自身の心臓に手をあてた。恐ろしく鼓動があがっていく。ここから抜け出す時が、来たのかもしれない。
向こうの世界では、銀時の肉体は時間が経てばただの屍と化してしまう。
それまでに高杉が探し出せなかったらどうする。魂も肉体も同時に消滅して、二度と会うことはかなわない。
もっと早く出会っていれば。死ぬ前に会えたら、よかっただろうに。

「俺は、君と会えなくなるのは…」

それならじっと待っているしかない。
駄目だ。だからいつまでも、臆病者のままなんじゃないのか。

部屋に明かりが広がった。
床に血が滴り落ち、その上にぺたりと、足跡がついた。


22.
ひっ、とマンションの出入り口付近で老人の悲鳴がした。後ずさっていく肉の落ちた足首と、前へと踏み込んでいく、爪が変色した裸足。
「あ、あんたは…」懐中電灯を向けたが、恐怖のあまり、それは手から滑り落ちる。

「お久しぶりです。何もしませんから、そこをどいちゃくれませんか」

死相の頬笑みは、身が震えるほどに美しかった。
腰を抜かして尻もちをついた老人を、彼はふらふらと横切って行った。

「もう戻れそうにないので、申し訳ないが、後始末…よろしくお願いします」
一人残された老人の隣に、鮮やかな赤い道が通っていた。

街に出て、人々の悲鳴を聞き、奇異の視線を浴びながら、銀時は止まった心臓を抱え、体温を失った身体を引きずって行った。
(晋助…どこだ、どこにいる…)
目を閉じたまま、気配を頼りに銀時は進んでいく。
場所は特定できないが、徒歩でいける距離ではない。この身体では無理だ。その前に不審者扱いされて捕まるか、倒れてしまうかどちらかだ。

その時銀時の目に止まったのは、空車の文字をアピールした一台のタクシーだった。
これしかない、と二の足が踏み込んでいく。
ガラス窓に張り付くと、運転手が硬直して開いた口が塞がらない様子だった。

「頼む。乗せてくれ、急いでるんだ」

落ちて行く皮膚を何とか引き上げて言うと、勘弁してくれよ、と運転手はハンドルを握って逃れようとしたので、
銀時は一度だけ強く窓を叩いた。

「殺されたくなかったら乗せてくれ…俺は本気だ」

左の目玉が頬骨のあたりまで下がってきた。凄い勢いで身体が腐蝕している。
そんな様を見れば、運転手は点頭せざるをえない。

後部座席に漸く座らせてもらえると、運転手がか細い声で「あんた一体何なんだ」と尋ねてきた。
何を答えても、この中年の小太りが受け入れられるはずがない。

「所謂ゾンビって奴かな。夢だと思って、俺の言った通りに突っ走ってくれ」
「夢…そうだな、そう信じよう」
「すまない運転手さん。あ、そこを左に曲がって…その次は…ああ、オフィスビルを曲がって交差点を左…」

彼の気配が徐々に近づいてくる。あと少しだ。もう少しだけ、持ってくれ。
銀時は薄れて行く意識を懸命に繋ぎとめる。
(震えている…寒いのか)
友人宅にはいないようだ。何をしているのだ。厚着していった筈だろう。
ふと窓の外を見やると、雪が降っていた。

「初雪か…」
「…早い。今日は奇妙なことだらけだい」

運転手の溜息に、今何月なのかと素朴な疑問を抱く。
手を擦りあわせると、爪がとれてしまった。もう痛みは感じない。そろそろやばいな。

「そこで止めてくれ。金はないんだ、代わりにあんたに運をあげよう」
「悪運かい?」
「いいや好運だよ。あんたはきっと、出世して、今入院している奥さんの病気も治って、彼女はあんたとの子供を身ごもるさ…」

運転手は目を見開く。

「兄ちゃん、何でそんなこと知ってんだ」
「夢の告げだよ。運転手さん、有難う」

車から降りるのもやっとだった。運転手がふらつく銀時の身を案じるが、精いっぱいの笑顔を繕って一言「あんたは恩人だ」と残した。

足が雪に埋もれた。5本の指が変な方向に曲がっているせいで上手く歩けない。
(神さま、頼むよ)
生きている時は微塵も信じちゃいなかった存在に、銀時は縋った。

「晋助、どこだっ」

かなり近い。銀時は雪と寒気を振り払って叫んだ。


23.
あの家から逃げ出して大分歩いた。バスタオル一枚羽織っているだけの薄着で、よりによって降雪だ。
途中で膝を折って、何処だか分からない場所で高杉はじっとしていた。
感覚もなくなり、人気もなく、まさに孤独という死に場所を見つけたようだ。
自分の口から白い息が出ると、まだ生きているのかと舌打ちした。
これが彼のそばであったなら、最後の希望に見放されたとしても、安らかな死地で眠れるだろうに。

母親のことが突然頭に浮かんだり、新しい父親の声が聞こえたり、土方に手を差し伸べられた時の感情が蘇ったり、
この懐かしさは恐らく死期が近いのだろうと、高杉は涙を浮かべて空を見上げていた。

「銀時…寒く、ないかな…」

寒気のせいで声が震える。暖房を入れてないから、壁の中で縮こまっていやしないか。
そんなことを悠長に考えられる状況ではないが。否、こんな状況だからこそ、考えてしまうだろう。

「会いたいよ」

銀時。
とっても会いたいよ。

遠くなった耳でふと聞いた物音に、首を傾ける。
雪は相変わらずしんしんと降っている。



「探したよ……」



高杉は思考も、呼吸さえも奪われた。
ただ前のめりになって、気づけば手を伸ばしていた。

生まれて初めて、何も考えずに全身で感情をむき出しにした瞬間だった。
涙で顔がぐしゃぐしゃになっていることさえ気がつかず、既に半分原型を留めていない顔の男の名前を、高杉は呼んだ。

「銀時っ」

駆け寄りたい衝動に身を任せた。
すると、彼の身体が急におかしな方向に傾いたのを察し、高杉は慌てて両腕を受け皿にした。
彼は高杉のほうへ倒れた。
そのままぐったりとして、彼の目はもう二度と開かれないかと思うほどに、重く閉じられた。

「銀時、銀時っ?」

高杉は青ざめて呼びかける。彼は口元だけ笑みを零し、「聞こえるよ」とか細い声で答えてきた。

「すまない…もう、力が……」
「、とにかく、横になろっ」

高杉は彼の身体を支えながら、ゆっくりと膝をつく。正座の姿勢で、太腿の上に彼の頭を乗せた。


24.
「ふう…」

銀時は高杉に甘えるような表情で、安堵のため息をついた。
太腿に擦れた皮膚が歪んで皺苦茶になる。

「膝枕って、結構気持ちいいな…」
「…初めて?」
「ああ…君が初めて」

血の色は雪で薄まり、地面に綺麗な臙脂の模様を描いている。

「驚いた…」
「ん?」
「銀時が来るなんて、思ってもみなかったから…」

もう二度と会えないとも思っていた。

「壁の中から、どうやって抜けだしたの…?」
「思いきって、突き破って」
「はは、そうなんだ。そんなパワフルなイメージないけど」

高杉は可笑しそうに笑う。ぽたぽたと銀時の頬に透明な滴が落ちる。

「そんなことしてまで、迎えに来てくれたんだな…」

銀時の髪を掻きあげる。指に絡んで数本が簡単に抜けてしまった。

「君が、呼んでくれたから…」
「え?」
「君の声が、聞こえた気がしたんだ…」
「俺の?」

聞き返しても、銀時からほとんど反応は見られない。息をつくだけの、頷きだった。

「うん、ずっと呼んでたよ。銀時早く来いーって」

なんてな、と冗談交じりに笑いを零して銀時を見下ろす。
彼はもう何も答えなかった。

「ありがと……」

そして、おやすみ。
雪の重力だけがやたらに鬱陶しく、それ以外は空気と同様の存在になりつつあり、高杉は銀時と、最後の接吻を交わした。

自分も、今晩はよく、底知れない深さで眠れそうです。

































「何スか、このニュース。最近命を粗末にする奴らが多すぎるっすよ先輩」
「全くでござる。人間の心理は時に理解しがたい」

金髪の女子高生と、サングラスをかけたロック風貌の男が新聞紙を広げている。

「17歳の高校男子が、自宅のベランダで首吊り自殺。遺書はなし。動機も思い当たらず。ただ人格障害の疑い、か…」

彼の変死体のそばには、血痕のついたシーツが不格好に置いてあったという。

終。

after


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