10/27の日記
22:49
Son rouge(幸村)
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『唯ひとつ、言えるのは―』
若い男女が店に入ってきたので、店主の根津殿はそちらに掛りきりになった。
が、俺には誰より強い味方がいるから全く平気なのだ。
佐助殿は、質問攻撃を繰り返す俺にも、嫌な顔ひとつせず丁寧に答えてくれる。
上司の土産の為のワインは勿論の事―。
好きなスポーツ、どこに住んでいるのか。
出身地。暇なときの、時間の過ごし方。
そして、どうしてソムリエになったのか・・。
だが、他の質問はぽんぽん歯切れよく答えてくれた佐助殿が、最後の質問には一寸言葉を詰まらせた。
何やら真剣な面持ちで考え込んでいる。
「佐助殿・・?俺は何か変な質問をしたのだろうか」
「うーんとね。詳しく話すと長くなるんだけど」
「うむ」
佐助殿はふと視線の方向を変えた。
そして、レジ横のガラス扉を指す。
「とりあえず、あっちに行こっか」
白き頬に淡い微笑みを浮かべ、俺を高級ワインが並ぶカーブに誘った。
中に入り、くるりとまわりを見回す。
密室独特の、秘密めいた匂い。
陳列棚には、所狭しとワインが寝かされている。
値札を見れば予想通り。ガラス扉の外とは桁が違い、52万円などとおよそ縁のなさそうな値段のものさえもあった。
「これこれ」
その中から、佐助殿は一本の赤ワインを選ぶ。
すらりと寸胴のラインは、ボルドー地方のもののようだった。
ラベルには男の顔に、赤い円のマーク。
値札には、たいそうご立派な数字が並べられている。
「これがどうかしたのか?」
「これがね、俺様の頬をぱーんと殴った犯人なの」
俺は首を傾げた。
何故なら、俺が佐助殿にした質問は、何故ソムリエになったかであって・・・佐助殿の頬を殴った犯人の事などは訊ねてはいなかったのだ。
だが、何かとても重要な話の様な気がして、俺は黙って言葉の続きを待った。
「俺様はね、それまで世の中ってものを馬鹿にしてて。まあ、お勉強は出来たから、影で悪い事してても先生は何も言わなかったしねぇ」
「うむ」
「当たり前の人生ってヤツがつまんなかったんだと思う」
何にでも全力投球のあんたには判んないだろうね、と口元を釣り上げて笑っている。
「で高校の時、まだ未成年だってのに、年を偽って夜のバイトなんかしてた」
「よ、よもや、夜のバイトとは破廉恥なバイトなのか?おなごの心を弄ぶ・・ホストだとか・・」
「違うって。唯のワイン専門のバーだよ」
「ならば良かったぞ。・・む、校則違反は良くも無いか!」
「へえ、あんた、今でも破廉恥が口癖なんだ!」
「―口癖という程ではない!」
破廉恥という言葉を使うと、あまりにも馬鹿にされるゆえ、高校辺りで封印した。
でも、佐助殿と会ってから何故か解禁された気がする。
きっと、この男が俺の羞恥心を刺激する所為だ。
今だって、馬鹿みたいに血潮が滾って、未熟者丸出し状態だし・・
そんな俺の状態を知ってか知らずか。彼は手元のワインをごく柔らかな手つきで撫ぜながら、話を続ける。
「ワインバーってのはやっぱりワイン好きの集まりでね。客も、店員も。珍しいヤツを開けたら、少しだけ試飲させてくれたりするんだ」
佐助殿は、手にしていたボトルを慎重に棚に戻す。
澱を交ぜ返すと甚八に叱られちまうからねぇ、と肩を揺らして。
そして、再び俺と向き合った。
「で、さっきのに戻るわけ」
「ああ。かなり高級なものだな。あれを飲ませて貰ったのか」
「そう。まあ、バイトの俺なんて廻ってこなさそうなもんだけど、深い紅色とか匂いとかが妙に気になって。じーっとみてたら、少しだけくれた」
人差し指と親指で2センチ程の長さを作る。
「ほんの、舐める程度」
ケチだな、と思ったがそれには触れなかった。
「それはよほど美味かったのであろう。佐助殿の人生を変える程なのだ」
「そうだね。美味しかったっていうより・・・思い出したんだ。とても大切な事。・・大切な人の事、大切な約束を」
「・・・佐助殿?」
「・・俺、カウンターの中だってのに涙が止まらなかった。俺の馬鹿野郎、どうして忘れちゃってたんだよって」
『大切な人』
あれほど大仰に駆けて居た心臓が止まった。
―ような気がした。
頭が鈍器で殴られたような痛みまで走った。
佐助殿に、良い人がいたなんて・・。
しかし、よく考えれば居ない筈が無いではないか。
こんな男を、おなごが放っておく筈が無いのだ。
過去に恋人の一人や二人くらい―。
そういえば俺は矢継ぎ早にした質問の中に、恋愛関係のものは含ませていなかったと気付く。
意図的では無かったのだが、なんとなく聞きたくないと思った結果だ。
「大切な人のこと・・か」
「そう。俺にとって唯一無二のひとが、最後の最後にくれたものの事」
今はもう、その御仁とは関わりなく暮らしているような口ぶりであるけれど。
「軽い気持ちで訊ねてしまったが・・。何やら唯事では無い雰囲気ではないか。話したく無かったら」
「ううん。旦那なら寧ろ聞いて欲しい。・・だって俺様が、これからも深紅に関わって生きていきたいと思ったきっかけなんだから」
彼は言う。
その人の、血の味を。
唇から流れ込んだ、どこまでも鮮やかな紅の味を―。
鮮明に思い出したのだと。
「はっきり目が醒めたんだよ、旦那」
佐助殿は、幸せそうに微笑んでいた。
突っ立った俺に視線を向けながらも、此処より遠くの場面を見ている。
細めた目はたわやかだった。
その頼りない様相に、俺は無性に彼を抱きしめたくなる。
「佐助殿・・」
だが。
抱きしめようと、伸ばしかけた指は、宙でみっともなく足掻いただけ。
已むを得ず、腕を元の位置に戻した。
強くこの胸に抱きしめたい、と思ったのに。
「旦那?」
「すまん、なんでもない」
この感覚には覚えがあった。
やっと近付けたと思った瞬間、遠くに行ってしまう人に怖気づいて・・。
一体いつ、誰に感じた感覚だったのだろうか。
「・・どうしたの、旦那?怖い顔をして」
「いや、俺には、時折不安になる時があってな。自分でも良く判らぬ」
俺の表情が曇ったのを、佐助殿は素早く読みとったようだ。
「ごめんね。ちゃんと旦那の聞きたい事に答えられなかった気がする。なんかビミョーな空気になっちゃったし。俺様のバカバカ!」
俺は返事を濁した。はっきりと判らないのだ。幽愁を感じている筈なのに、妙な安堵感もあるから。
唯ひとつ、言えるのは・・。
我知らず、深い深い淵に嵌っていくという事実。
彼は心の中の、誰も足を踏みいれられない場所に、甘やかな宝物を抱えている。
そしてその事実は、俺をほんの少しだけ臆病にするのだ。
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