11/02の日記

13:12
星を食べる
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垂れ下がった釣糸の先で真っ赤な浮きがぷかぷかとタライに浮かんでいる。
ミラーマンはこっそりとため息をついて自分の隣をうかがった。網を片手に魚が釣れるのを今か今かと待っているタクシーの目は悪戯をしている最中のジェームスのように輝いている。それが鏡張りの部屋の壁に写った困惑した自分の表情とあまりに対照的で、ミラーマンはもう一度こっそりとため息をついた。

…まさか長い人生…自分の部屋の中で釣りをする羽目になるとは思わなかった。



「そういやお前って能力の悪用全然しないよな」

淹れてやったお茶をおとなしく飲んでいたタクシーがそんなことを言い出したのは三時間前。

「当たり前だ。そんなことをしなくても暮らしには困っていない」
「いや、そうじゃなくてさ。現実だって映るんだから色々使い道あるだろ?なんか欲しくなったりしねぇのか?」

確かにミラーマンの能力があれば鏡の中から物体の虚像を易々と取り出すことは出来る。虚像を迷界側に持ち込んだ所で、それはあくまでもあちらからは見えない裏の部分。現実の鏡に写らなくなってあちらの人間が困ることはない。

しかしどうあがいてもそれは虚像。
本物ではない。真実の姿を愛するミラーマンからしてみれば、同じように見えてとんでもなく価値が違う。

「鏡から出せるのは裏側。虚像でしかない。お前に代金を払えば本物が手に入るんだからそんなことをする必要もないだろう。オレの精神は莫大な富よりも尊い。それを損なってまで盗人の真似事をするつもりもない」

鼻を鳴らして答えるとタクシーが苦笑を返す。

「真面目だなぁミラーは。まぁその方が俺の売上にもなるから俺的にはありがたいけどさー…退屈だろ?お前が自分のためにやることなんてせいぜいプラネタリウムごっこくらいなんだから」

幽閉されたミラーマンは地下でしか星を見ることが叶わない。それを知りながらもタクシーがわざとプラネタリウムごっこなどとからかうような言い方をしたためミラーマンは激怒した。

「無礼者め…叩き出すぞ!!」
「だってよーせっかくのどこでもド…あ!」

次の瞬間タクシーがガシッとミラーマンの手を掴んだ。
叩き出そうとしていたため隙を見せたりはしていないが、タクシーの速度には反応が遅れる。腕を掴まれて焦ったミラーマンは輝くばかりの笑顔を浮かべたタクシーの顔を見上げさらに困惑することになった。

「俺、お前におすすめのとっておきの遊び思いついた!」


そしてタクシーの言う『とっておきの遊び』こそが、この釣りだった。

浮きこそタライに浮かんではいるが針が沈んでいるのは現実でのどこかの湖だ。ミラーマンの能力を使い、鏡のように凪いだ水面を通して魚の虚像を釣り上げる。それがタクシーの提案した遊びだった。

「釣りなんてしたことがないぞ」
「安心しろ。俺はここに来て直ぐの頃シェフとケンカする度にしょっちゅうやってたから慣れてる!」
「そうか」

興味などないように水面に浮かんだ浮きを見つめる。

タクシーの口から出た自分の知らない人物の名にほんの少し苛ついた。
もうどれだけの間、番人やタクシーを除くホテルの住人達を見ていないだろう。

あとどのくらい経てば…いや…永遠の繰り返しの世界に変化など訪れない。
自由が訪れる日など…永遠に…。


深い思考に囚われかけていた、その時。

「ミラー!何ぼさっとしてんだ!引いてるぞ!」
「え!?あ、ああ…どうすればいいんだ!?」

全く釣りの経験などないミラーマンがリールなどというものを知っている筈もなく、釣竿ごと魚に引っ張られる。危うくタライに頭から突っ込みそうになった時タクシーが後ろからミラーマンの体ごと釣竿を支えてくれた。

「大丈夫だ!焦るな〜…このまま支えててやるから、ゆっくりこの糸巻きを回して引き寄せろ」
「お、おう…」

そうしてなんとか釣り上げたのは、両手を広げたほどの翡翠色の鱗をした美しい魚だった。

「へーッ珍しい。こんな魚がいるんだなぁ」

ミラーマンが能力を使うのを止めたためにただのタライに戻ったその中で、狭そうに泳ぐ魚。その鱗の美しさにタクシーが感嘆する。
しかしミラーマンは真っ赤になってひりひりと痛む両手を擦ることで忙しかった。

「まだ竿を持ってた手が痛い…」
「泣き言言うな。お前は頑張って釣り上げたんだ。よくやったな」

ぽん、と頭を叩かれ見上げるとニカリと笑うタクシー。つられてミラーマンも笑みを浮かべた。

「で、どうやって喰う?ソテーとムニエルどっちにする?」

そして笑みを引っ込めた。
タライを庇うようにタクシーの前に立って叫ぶ。

「お前!食う気だったのか!」
「あったり前だろーが給料日前の俺を舐めんなよミラー…一昨日返す約束のシェフへの借金踏み倒してんだ…今日の夕飯代すらねーよ」
「返してやれよそれは!違うダメだ!これはオレがはじめて釣った魚なんだぞ!オレが飼う!」
「む…まぁそうだな…二人で釣ったわけだからお前にも半身やるよ。で、ソテーとムニエルどっちにする?」
「オレの話を聞け!!」

堂々巡りする会話の末に『ミラーマンが責任を持って魚を肥らせる。その代わりに給料日までタクシーにも金庫室で食事を提供する』という結論に至り、突然増えた魚と車にまで餌をやらなくてはいけなくなったインコにミラーマンは散々文句を言われた。

そんなわけで、ミラーマンはその魚を飼うことになった。何時目を離した隙に黄色い元化け猫に食われても諦められるように愛着が湧かない名前として、その魚は『ソテー』と命名された。


「ソテー、ソテー♪餌だぞー」

透明な水槽に餌を入れてベッタリと張りついているミラーマン。指先を水面に浸し、魚が指先をつつくとふふふと怪しげな笑い声を出している。もはや愛着どころか溺愛していないと言えるわけがない。

考えてみればミラーマンにとってソテーは、はじめての『自分が面倒をみるべき生き物』となったわけだ。張り切ったミラーマンに水槽だのポンプだのを買いに行かされたタクシーはため息をついた。

「ペット道楽になんなきゃいいけどなぁ…」

相変わらず見上げると部屋の天井には星空に月が登っている。

「お前プラネタリウムだけじゃなく水族館までおっぱじめる気?」
「オレの部屋をレジャー施設扱いするんじゃあないぞタクシー。…少しでもソテーが故郷と同じように暮らせるようにな」

言われて見ると天井の月は時折さざ波に揺れるように揺らめいていた。

「まさか魚のために能力を使うたァ…ペット馬鹿ここに極まれり…」
「五月蝿い。あっ、見ろタクシー!ソテーが水面の月を食べようとしてるぞ!ほらさっさとこっち来てお前も見ろ!!」
「はいはい」


水槽を覗き込むとなるほど確かに魚が水面に反射する星々を餌と間違え啄んでいた。水槽の底にも鏡を敷いてあるのか、まるで宇宙空間を泳いでいるみたいだ。

夜空に浮かぶ翡翠の鱗を二人してじっと見つめている。

「綺麗だな」
「…ああ」

水槽に覆い被さるように水面を覗き込むミラーマン。無言でその様子を眺めながら考え事をしていたら旦那から呼び出しがかかってきた。どうやら俺も随分と長く浸っていたようだ。ミラーマンが顔をあげずに呟く。

「仕事か?」
「ああ。また来るよ」
「ふぅん…」
「…なぁまだ喰わねーの」

部屋を出る際、背中に投げかけた言葉に奴は振り向きもしなかった。

「いってらっしゃい」
「…行ってきます」

魚の吐いた泡が、ぽかりと音を立てた。


雇い主に定期報告をするのは勤め人としての義務だ。そして、俺はこういう奴なわけで。

「どうじゃ…ミラーマンは使えそうか?」
「…能力としては、いい線いってると思います。生き物の死に絶えた池から魚の魂を実体まるごと引き上げることが出来た。あれをちょいと応用すりゃ生きるのに迷った人間を鏡からこちら側に引き込むようにも出来るかもしれない」

タバコに火をつけると老鼠の主人はゲホゲホと咳き込んだ。恨みがましい目も気にせず紫煙を吐く。

「使えそうか?」
「難しいでしょうね…アレは純粋すぎる。下手に心を砕いてしまう。元々、アレの仕事は『判別』でしょう?曲がりなりにも家宝の存在に汚れ仕事を言いつけてすんなり聞くとも思えません。まぁ向いてないんじゃないですかね」
「ふむ。それもそうじゃな…」

老鼠が部屋を出ていく。その背に煙とともに話を吹きかけた。

「魚はどうします」
「好きにせい」
「了解しました」

吐いた煙にため息を混ぜて、俺は茫っと立ち尽くした。遠くで旦那の悲鳴が聞こえる。シェフの怒鳴り声と走ってくる音が近づいてくる。
曖昧に笑って俺はタバコを消すと、部屋を出て走り出した。捕まるわけがない。

俺には走ることしか能がない。
俺はこの生き方しか知らない。

「ま、俺の仕事を取られるのは癪ですしね…」




その夜、ミラーマンの様子を見に行った俺は度肝を抜かれた。

「何してるんだお前ッ!!」

魚が泳いでいた水槽はひっくり返され、ミラーマンはその下に置いてあった鏡の中に腰まで浸かっている。

慌てて肩を掴むと、その掌の中で魚が今にも生き絶えようとしていた。
言葉を失った俺にミラーマンはただポツリと呟く。

「…最期に『戻りたい』と。『こんな池でも故郷であるから』と」

気づいたのか。いや、知っていたのか。絞り出すような声で尋ねてもミラーマンは死にかけの魚から目を逸らさなかった。

「…いつから…」
「最初からだ…普通は実体のある魚なんて釣れない。ソテーは絶望していた。孤独に疲れていた。だからこの鏡を通れた。だけどもうお終いだ。ソテーは…さ迷う魂にはさせない。このままあちら側に帰す」

魚のえらが動かなくなってきた。
その事にようやくハッとして俺はミラーマンの肩にかけた手に力を込める。

「そんなことはどうだっていい!早く出ろ!この池の水は毒だぞ!!」
「…知ってる。それでも、汚れてしまっても、もう他に誰も居なくとも此処が正しい場所なんだ…」

ミラーマンは頑として動かなかった。
魚の目から光が消える。俺はミラーマンの胴体に腕を回し、力づくで鏡から引きずり出した。

水の中から引っ張りあげた時、ミラーマンの手から魚がこぼれ落ちる。美しかった翡翠の魚は泳ぐこともなく水の底にと消えていった。



椅子に座らせたミラーマンを大きめのバスタオルで拭いていく。項垂れたミラーマンの表情は見えない。何も言わずにいるとやがてミラーマンの方からぽつぽつと魚が口から泡を吐くように静かに言葉を溢した。

「この世界なら永遠を生きられるのに。もうひとりにならなくて済むのに。ソテーはいってしまった。皆離れていく。オレはまた独りになる。…化け物だから」

この時俺は、ぞっとするほど冷たいコイツの絶望に始めて触れた気がした。
コイツは俺と同じだ。満たされぬ欲望があって、自分の生き方を曲げられないのにそれでもなお誰かに寄り添いたいと願う。化け物と罵られようと、生き方を蔑まれようと…。

だがコイツは俺とは比べようもない程に上等だ。…俺だったら手に入れた魂を還したりなんかしない。

「喰ってしまえばよかったんだ。そうしたら迷界で生まれ変わる。また一緒にいられる」

ミラーマンはその言葉に力なく首を横に振った。

「そうしたらオレは、本当に化け物になってしまう」

俺は曖昧に微笑む。…蔑まれても仕方ない。俺こそが本当の化け物だから。それが俺の仕事で、俺の生き方はこれしかない。
だけどミラーマンは違う。ミラーマンはまだ選ぶことが出来た。俺とは違う答えを出すことが出来た。

「オレはソテーを愛していた。ソテーはずっと側にいてくれた。だけどオレはソテーに何をしてやれただろう。何をしてやればよかったんだろう」

俺は心底羨ましいと思った。
その迷いに、後悔に、ミラーマンの精神の美しさが滲んでいる。
俺には始めから無かった、清らかな心。

ひどく胸が苦しくなり、ミラーマンの目を見ていられなくなった俺はバスタオルごしに冷えた体を抱きしめ背中を擦ってやった。凍えたような震えが伝わってくる。

「…お前は立派にやったよ。アイツをあちら側に還してやった。最期まで寄り添っていた。アイツはお前の掌で死んだ。それはたった一匹で池の底で死ぬ未来より余程救われる結末だ」

幽かに聞こえた嗚咽に気づかない振りをして俺は祈るように口にした。俺に言える精一杯の綺麗事を。

「あの魚は魂も肉体ももうあちら側に還ってしまったけれど、その影はお前の清らな心に置いていった。お前が星を見上げればお前の目を通して星を啄み、お前が名前を呼べば胸のうちで波を立てるよ。お前が覚えている限り、お前の魂に寄り添っているよ」

ミラーマンが顔をあげた。戸惑うように揺れる瞳に俺の背中の空の星が浮かんでいる。

「信じてくれミラーマン。そうすればいつまでも、ソテーはそこで生きていける」

清らかな精神のうちで、いつまでも泳ぎ続ける魚。そこは俺には決してたどり着けない楽園なのだろう。

「もし叶うならば、いつの日にか俺が居なくなることがあっても…俺もお前の胸のうちに居たい」

思わず呟いた言葉にミラーマンが頭を振って俺にしがみつく。もう嗚咽を隠そうともせずに、ミラーマンは泣いた。


世の中間違ってる。
こいつは自分の能力のせいで疎まれ、嫌われて化け物として此処にいる。

こんなに優しい生き物なのに。

「大丈夫だ。ずっと側にいるよ」

努めて優しい声で慰めながら自問自答する。

俺はいつか俺が消えるまでに、コイツに何をしてやれるだろうか。
何を残してやれるだろうかと。



翌日、方々探してようやく手に入れた魚の形をした翡翠のブローチを手に地下道を歩いていると会いたくない奴にあった。途端になけなしの優しさが音を立ててしぼんでいく気がする。

「やぁ。上手くいったようだね?」
「………今、俺は最高に機嫌が悪いんだ。ダチがろくでなし共に寄って集って虐められたもんでな」

地下道の暗さに慣れた目に嫌がらせかと思うほどの光を発しながら、審判ゴールドが微笑む。俺はさらに眉を寄せた。

「いじめだなんてとんでもない。これは重要な案件だよ。ミラーマンに魂の収集までされたら迷界と現実のバランスが崩れる。それにミラーマン自体のメンタルも悪化するからね。悪くすれば消えてしまうところだった」
「それならばアンタが直接そう旦那に伝えればいい」

肩を竦めてゴールドは首を横に振る。

「あの子はまだまだ子供だからねぇ。嫌ってる私からそんな事を言えば却って反発する。友達に教えてもらうのが一番さ」
「………アンタだって友達だったんだろう」

ゴールドが過去を懐かしむように頷いた。

「そうだね、私にとって彼は大事な友達だよ」
「それなら…」
「友達としてとても残念だが、私にとっての一番大事なものは彼ではないんだ」

言い切られた言葉と、冷たい金属のような声に身が竦みそうになる。
コイツと戦えば、俺はギリギリ勝てるだろう。だけどおそらく戦おうとした瞬間に俺は消される。それがわかっているからこそ、俺は握りしめた拳をゆっくりと解いた。

ゴールドが話は終わったとばかりに踵を返して背を向ける。最後に…空耳かと思うほどの小さな願いを口にして。

「だからね、君が助けてあげてくれ。我々の大事な友人を頼んだよ」

地下道に闇が戻ってくる。
俺も一言だけ言葉を返して金庫室に向けて歩き出した。

「………言われなくてもそうしますよ」


宝物庫では相変わらずミラーマンが星を眺めていた。

遠い星に思いを馳せているのか、思い出となった魚に餌をやっているのか。
その横顔からは判然としない。だがその目は少しだけ、微笑んでいた。

どうやってブローチを渡そうか、俺はその横顔に声をかけた。


「ようミラー。またプラネタリウムごっこか?」


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たまの「星を食べる」でいつか何か書いてみたいなと思っていたのですが微妙な仕上がりになりました。

タクシーがミラーマンに世話を焼くようになるまでのお話です。

需要なんて考えずに鏡の日が終わるまでフリーです。


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