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□正しい飼い犬のしつけ方
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 3 ある風の強い日の場合



 時折、練習場を冬の冷たい風が吹き抜けて行く。

「うっひゃーっ、さみぃーっ!」

 隣を走る世良が両手で自分の体を抱きしめて、肩から腕を何度も擦る。
 ランニングを始めたばかりの体には堪える寒さだ。

「煩ぇな。冬なんだから寒いに決まってんだろ」

 前を走る世良と同じポジションの堺が、チラリと視線を向けてくる。

「そうなんスけどっ!」

「世良の場合、口動かしてた方が体も温まるかもなー」

「暑いと思えば寒く感じないんじゃね?」

 堺の隣を走っていた石神や丹波の、アドバイスと言えなくもない発言に「えー……」と世良が眉を寄せた。

「何スか、その精神論。寒いモンは寒いでしょ」

「わかってないなー、赤崎。心頭滅却すればナントヤラ……って、昔から言うだろ?」

「世良さんが無心になれるワケないし」

「赤崎っ! お前ムカつくーっ! 先輩を何だと思ってんだっ?!」

 ランニングの最中でもETUの元気印は騒がしい。
 降り下ろした手は僅かにスピードを落とした赤崎の前を掠め、バランスを崩した世良は前につんのめった。

「何で避けんだよっ?!」

「避けるに決まってんでしょ」

 子供みたいにギャーギャーと騒ぐ世良に、赤崎は指で耳を塞いだ。
 その赤崎の態度に、ますます世良が不機嫌になる。

「大人しく殴られとけっ!」

「嫌っスよ。何でわざわざ……」

「うぐぐ……っ!」

 反撃しようとした世良だが、向けられた堺の視線が余りにも冷たくて、唇を噛んで耐える。
 赤崎に言われた事が図星だったと悟られたくなくて、スピードを上げて開いてしまった堺との距離を詰めた。

「――うわっ」

 ビュッ、と音を立てて強い風が吹き、世良はギュッと目を閉じた。髪が頬を叩く。
 その直後、足元から冷たい旋風が発生して、選手達の間を吹き抜けて行った。

「さっむ!」

「うえ〜っ、口に砂入った〜」

「地味に痛ぇっ!」

 一瞬体を揺らすように強く吹いた旋風に、選手達は僅かにスピードを落とした。
 パチパチと巻き上げられた砂がジャージを叩いていく。

「ザキさん、どうしたんスか?」

 最後尾を走っていた椿が、不意に立ち止まった赤崎に声を掛けた。
 顔を覗き込むと、左目を押さえてうつ向いている。

「……ってぇ、何か目に入った」

「は? そんなほっそい目にゴミが入んのかよっ?!」

 仕返しとばかりに指を差してゲラゲラと笑う世良を赤崎が睨む。
 だが、目の異物感とじわりと滲んだ涙に、いつもの鋭さは半減していた。

「下手に擦ると傷つくぞ」

「目洗うか、目薬点して取って来いよ」

「……ス」

 ぱちぱちと何度も瞬きを繰り返す赤崎に堺と丹波が促す。
 溢れてくる涙と一緒に流れてくれれば良いのに、ゴロゴロした異物感は残ったままだ。
 選手達から離れ、コーチ陣の元へと向かう。

「どうした、赤崎?」

 ランニングから外れた赤崎に声を掛けたのは、寒そうに肩を竦めて立つ達海だった。
 その隣では、練習に参加する気があるのかどうか疑わしい、ETUの王子様が旋風に煽られた髪をさらりと掻き上げている。

「目にゴミ入ったみたいで」

 溢れた涙を拭っても瞼の内側の違和感は拭いきれない。
 小さな痛みに目を擦ろうとした手を、いつの間に近付いたのかジーノが掴んだ。

「――王子?」

「見せてごらん。ほら、上向いて」

「え、いや、」

 断るよりも早くジーノの手が頬に触れ、親指が下瞼を押し下げる。
 すっと顔を寄せてきたジーノと目が合って、赤崎は咄嗟に視線を逸らした。

「ちょっと。下じゃなくて上だよ」

 有り得ない至近距離に逃げようと後退る赤崎の頬を両手で挟んで、ジーノが「ほら」と上向かせた。
 視界の隅に、こちらを窺うような選手達の姿が入って、居心地の悪さを感じながら視線を上げる。

「あー……砂粒? みたいだね」

「あの、王子」

 頬に小さく笑うジーノの息が掛かって、ビクリと赤崎の肩が跳ねる。
 近すぎる距離とじっと見つめてくる視線に落ち着かなくなり、ジーノの手を払おうとした赤崎は、中途半端に手をあげたまま動きを止めた。

「――っ!」

 近すぎて焦点の合わなくなったジーノの顔が不意に動いて、変わりに視界に現れたのは――
 ぬるり、と眼球を舐めた、ジーノの舌。

「取れたよ、ザッキー」

 舌先に付いたらしいゴミを指で拭い取って、これ以上はないというくらいに目を見開いた赤崎にジーノが微笑む。
 角度的にジーノが赤崎にキスをした様に見えた選手達は、赤崎同様に凍り付いて足を止めた。

「……いやー、さすがにソレは無いわー」

 一瞬で練習場に訪れた静寂を、達海の声が破いた。
 無理無理ー、と顔の前で手を振る達海にジーノが笑みを浮かべたまま首を傾げる。

「こうやって取るのが一番だと思わないかい?」

「絶対無理。眼球舐められるなんて、考えただけでも寒気する」

 そう言って、達海は両手で自分の腕を摩った。

(……舐められた……王子に、舐められた)

 ――何を?
 ――眼球を。

 達海の言葉に、急に熱く濡れたジーノの舌の感触が蘇って、カッと赤崎の頬に熱が上がった。
 有り得ない。
 選りに選って、ジーノが男の自分の目に入ったゴミを舌で舐めて取るなんて。有り得ない。

「――ねぇ、ザッキー」

 知らず知らず舐められた左目を手で覆っていた赤崎は、ハッとして顔を上げた。
 ふふっ、とジーノが笑う。

「もう、痛くないでしょ?」

 腕を組んで、顎に指を添えたその立ち姿はいちも通りで。

(……っ、何考えてんだよっ、この人はっ!)

 背中に様々な視線を受けながら、左目に残る、むず痒いような感触をとにかく早く拭い去りたくて、その場から逃げる様に赤崎はグラフハウスの中へと駆け込んだ。


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