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□正しい飼い犬のしつけ方
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1 ある雨の日の場合
(なんだこれ)
壁に手を付いた赤崎は、項垂れて頭から熱いシャワーを浴びた。
埃臭いような、不純物が混ざったような雨のにおいが、熱いシャワーのお湯と一緒に流れていく。
思っていたよりも体が冷えていたようで、じわじわと上がる体温に張り詰めていた息を吐いた。目を閉じたまま、心地好い熱さに身を委ねる。
カタン
浴室と脱衣所を仕切る扉の向こうから気配がしてハッと顔を上げると、磨りガラスの向こうに家主の姿が見えた。
「ちゃんと温まるんだよ。風邪をひいて困るのはザッキーなんだから」
ピッ、と微かに機械音がして、次に洗濯機が稼働する音が聞こえた。
ジーノが洗濯機を使っているのが不釣り合い過ぎて、なんだか笑えてくる。
「着替え、ここに置いておくから使って」
「あざっす」
影が遠ざかって、シャワーの音に紛れて扉が閉まる音が聞こえると、赤崎は意識をシャワーに戻した。
さっさと体を洗って出た方がいい。
近くにあるボトルに手を伸ばして、表示されてる文字を確認する。
オフの日に、ジーノの買い物に付き合わされる回数は、既に片手を超えた。
その大半は単なる荷物持ちで、今日もそうなるはずだった。
とても自分の給料では一番シンプルそうに見える椅子のひとつでさえも買えないようなインテリアショップを覗いて、知り合いが経営しているというセレクトショップに立ち寄って、ぶらぶらと街を歩いていた。
人目に付くというのに、「歩きたい気分なんだよね」と王子様の気まぐれで。
そうしたら、雨に降られた。
冬の雨は酷く冷たくて、雪に変わりそうなソレはじっとりと服に染み込み、体温を奪っていった。
車に乗り込む頃には髪から雫が垂れそうなほどに濡れてしまって、予約していたらしいランチをキャンセルして、ジーノのマンションに戻って来た。
「だいぶ冷えたみたいだね。顔色が悪いよ」
ジーノの方が薄着だったくせに、無理矢理に近い感じでバスルームに押し込まれた。
確かに寒くて指先は悴んでいたけれど、自分が先でなくてもよかったのだ。
きっとジーノの方が体は冷えているはずなのに。
「……こんな時まで気まぐれなのかよ」
風邪をひかれて困るのはジーノだって同じだ。
もしこれで体調を崩しでもしたら、彼の事だから小言の二つや三つくらい、言われそうな気がする。
「……面倒臭ぇ」
少し熱めに設定したシャワーのおかげで、手足はジンジンと温かくなっている。それほど長い時間、浴槽に浸からなくても平気だろう。
雨の匂いの代わりに、時折ジーノから香る匂いと同じ匂いのするボディーソープを洗い流し、一人暮らしには広すぎる浴槽に体を沈めた。
* * *
「上がりました」
ガシガシとタオルで頭を拭きながらリビングに戻ると、ジーノはお気に入りのソファーではなくキッチンに立っていた。
「ちゃんと温まってきたかい?」
ジーノの手には、琥珀色が綺麗に抽出された紅茶用のポットがあり、ふわりと湯気と共に茶葉の良い香りが立ち上る。
(アールグレイ、だっけ?)
ジーノが好んで飲んでいる茶葉の銘柄を思い出していると、白磁のシンプルなティーカップを差し出された。
「飲むといい。ほんの少しブランデーと蜂蜜を垂らしてあるから、体が温まるよ」
「……ども」
受け取りながらチラリと何気なしにジーノを見ると、どうやら機嫌が良さそうで口許に笑みを浮かべている。
雨に濡れるのは好きじゃないと、常々言っているくせに。
何がジーノをご機嫌にしたのだろうかと思いながら、ジーノに倣って立ったままカップに唇を付けた。
ほのかなブランデーの香りが鼻を抜け、蜂蜜の柔らかな甘さに、ほぅ、と小さく赤崎は息を吐いた。
「やっと頬に赤みが戻ったね」
ふっと笑みを浮かべたジーノの手が伸びてきて、手の甲が赤崎の頬を撫でた。
(冷たい……)
湯上がりの火照った肌がジーノの手の冷たさを敏感に感じ取って、赤崎は顔を上げた。
早く体を温めて欲しくて「王子」と口を開くと、次の言葉を発するよりも先にジーノの指先が滑り落ち、赤崎の唇に触れた。
綺麗に整えられた形の良い爪が、ゆっくりと下唇をなぞる。
「唇も、青くなっていたんだよ」
「――お、じ……」
「血色が良くなったね」
ジーノのスキンシップは頭を撫でるとか肩を抱くとか、彼曰く『飼い犬を愛でる』行為らしいのだが。
こんな風に触れられるのは初めてで。
いつもの様に振り払えばよかったのに、赤崎は僅かに目を見開いてジーノを見つめ返す事しか出来なかった。
「ボクもシャワーを浴びてくるから、適当に寛いでて」
トン、と赤崎の肩を叩いて、ジーノはキッチンからバスルームへと向かう。
すれ違い様に雨の匂いがした。
先程まで自分も纏っていた、ジーノには似合わない無機質な匂い。
(……なんなんだよ)
得意の気まぐれな行為で意味などないのだろうが、遊ばれているようで性質が悪い。
自分が今纏まっている香りが普段はジーノから香るものだと気付いて、赤崎は眉を寄せると大きく溜息を吐いた。
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