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□お疲れですね、後藤さん
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気持ちの良い天気だ。
外は青空が広がっていて、心地よい風が頬を撫でていく。
開けた窓から、練習中の選手やコーチ達の掛け声が聞こえてきて、後藤は足を止めて練習場に目を向けた。
駆け回る選手達を見ていると少し羨ましさを感じる。
現役を退いてもう何年も経つ。だいぶ筋肉も落ちた事を考えると、彼等の中に混じって走り回るなど、もう無理な話だ。
それでも。たまにがむしゃらにボールを追いかけたくなる時がある。
「後藤」
ぼんやりと廊下から練習場を眺めていると、後ろから声を掛けられた。振り返ると達海立っていて、がすっと右手を差し出して来た。
「どうした、達海?」
何だろうとその掌を見つめて首を傾げると、達海はぷらぷらと上下に手を揺らす。
「後藤んちの鍵貸して」
「鍵?」
「そ。後藤んちの鍵」
「なんだ? 忘れ物でもしたか?」
首を傾げながら、スラックスのポケットに手を入れて、キーケースを取り出した。
達海が後藤の部屋に忘れ物をしても、大抵は大したモノではなかったり、必要なモノだった場合は時間を見て自分が取りに行くのが常なのに、鍵を貸せと言われたのは初めてで。
キーケースを手にしたまま、腕時計を確認した。
「違う違う。練習終わったらさ、お前んち行ってていい? CSで見たい番組あんだよ」
「それは構わないけど……それなら、俺の仕事が終わったら一緒に−−」
「お前午後から会議だろ? 何時に帰って来るかわかんないお前待ってたら、見逃すかもしんないじゃん」
言い終わらないうちに、唇を尖らせた達海が「いいから寄越せ」とキーケースを取り上げた。
迷う事なく達海の指がマンションの鍵を抜き取る。
目的のモノを手に入れた達海が満足気にニッ、と笑った。
「ついでに泊まるからさ。早く帰って来てね、ダーリン」
ちゅっ、と投げキッスなんかして廊下を戻って行く達海の後ろ姿を見送った後藤は、何とも言えない恥ずかしさに額に手を当て、緩む頬を誤魔化す様に溜息を吐いた。
***
各クラブチームのGMが一堂に会する機会は、一年を通してもそう多くはない。
最年少でまだ三年目という経験の無さもあってか、こういう場は後藤は苦手だ。
就任したばかりの頃と比べれば、だいぶ周りも見えるようにはなってきたが、中には若造風情がと、あからさまに見下しているような狸爺もいて、現役時代のソレとは違う腹の探り合いも正直疲れる。
書類の束を抱え車に乗り込むと、どっと疲れが出た。
「……もうこんな時間か」
チラリと腕時計を確認して後藤は溜息を吐いた。
とっくに午後の練習も終わっている時間で、達海はもうマンションに向かっただろうかと思うと、少し寂しいような気がした。
これからクラブハウスに戻って、もう一仕事しなければならない。
せめて一目、達海の顔を見て癒されたかった……なんて、蓄積されたダメージ加減に自嘲しか浮かばなかった。
(よし、早く終わらせて帰ろう)
愛しい恋人が我が家で待っていると思えば、萎えたやる気も回復する。
キーを回しエンジンをかける。来る途中でラジオのボリュームを下げて、ハンドルを握った。
駐車場を出ると、フロントガラスから見える空は茜色に染まっていた。
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