創作の間【長篇】
□愛別離苦〜不倶戴天〔後篇〕
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「……取り敢えず、山場は乗り越えたか」
《助かった…》
思わず溜め息をこぼす一人のスーツ姿の男と幽霊の青年。男の額には汗が浮き出ている。近くにあるそれほど大きくないテーブルには、洗面器と、血で汚れたコットンと包帯、まだ新しい包帯、タオル、ティッシュ…が、乱雑に置かれている。
男が椅子に腰を下ろし、目の前に横たわる少女を伺う。
少女は一定のリズムで呼吸しているが、その表情はぐったりとしており、眸は閉じられている。
「まさか、如月さんが急な出張でいないとは思わなかったな…」
ネクタイを緩め、ボタンを少し外した格好の藤宮恵治は、藤宮夏希と年が8歳離れた従兄。夏希とその守護霊の杉浦響輔の良き理解者の一人。
上司に頼まれたデータの処理を片付けていたところに、一本の電話が入った。3.7インチのスマートフォンの画面には、藤宮本家の電話番号が表示されている。珍しく思いながら通話状態にすると、藤宮如月のもとで巫女の修行をしている女からだった。相手は切羽詰まった状態で「夏希さんが、腕を…血だらけにして…!如月様は急な出張でいらっしゃらなくて…!何か、強力な霊力を感じて……」と言った。
怪我の治療くらいでと思ったが、それがただの怪我ではならしい。慌てて藤宮本家へ行く支度をして、上司にはそれなりの理由を述べて会社の飛び出してきた。
見たところ、確かに酷かった。
右腕は真っ赤で、大量に血を流したのか、顔から血の気は失せていた。右腕の少し乾いてしまった血を水で濡らしたタオルで丁寧に拭き取ると、そこには何かの文字が書いてあった。
「…これは、梵字じゃないか?」
《分かるのか!?》
「いや、何かの本か何かで見たことがあるだけだ…にしても、少しエグいな…」
治療中の会話はこれだけだった。後は治療が済んで一息ついたときの会話だ。
《俺はこんなに近くにいるっていうのに、夏希を運ぶのはおろか、動ける範囲内で誰かの助けを呼ぶことしかできないなんてな…守護霊なのに落ち込むぜ、これは》
「…守護つったって、結局は霊についたオマケの単語みたいなものだからな、できることはそりゃ限られてくるさ。守護霊はあくまで守護する人間をあらゆる災厄から護る者だ。それ以上の干渉はお互いにとって赦されない。その身を滅ぼしかねないからな。」
《…そんなことは知ってる、ただ…》
恵治の説法に不服と反発を抱いて食い下がる響輔。そんな彼を見て溜め息を吐く恵治。
「…ま、俺はお前みたいにユーレイじゃないからそのへんはよく分からないけどな。今のうちに悩んどけ、ユーレイ少年響輔よ」
《おい…その何かのタイトルみたいなのやめろ》
そうこうしていると、夏希が呻き声をあげながらゆっくりと鳶色の眸を露わにする。
「お、漸く目を覚ましたか」
「……け、恵治兄さん!?どうして!?」
完全に覚醒した夏希は、恵治の存在に仰天する。その勢いで飛び起きた結果、傷のある右腕に激痛が走り、悶える。
「どうしてって、仕事中に『夏希が曰く付きの怪我を追って、それを治療する人間がいない』って電話が来たらそりゃ、仕事途中放棄してでも来るだろうな」
「う……ごめんなさい…」
「おまけに、怪我の影響で熱あるし…今は……」
すると、恵治の額と夏希の額がコツンと当たった。恵治の少し長い前髪の先が鼻の頂きに触れる。
「……!」
「熱は…まだあるが、さっきよりは下がったかな?」
「恵治兄さん!!恥ずかしいから早く離れて!!」
「わ〜!夏希ってば、こんなんで恥ずかしいとか、初心だな〜」
恥ずかしがって言う夏希の顔は赤い。そんな夏希を見てからかう恵治は楽しそうだ。
「な…!初心言うな!!」
「はいはい、怪我人は大人しく寝てなさい。今日から何日間か如月さんがいないんだろ?その間はこの家に居るから。何かあったら言えよ?」
「え…恵治兄さん、それで大丈夫なの?」
「大丈夫も何も、修行巫女じゃ看れない曰く付きの怪我人を残して帰れるかっての。安心しろ、家事は一通り出来る」
《お前はオカンか》
「甘いな、最近の男は家事、特に料理が出来る奴がモテるんだぜ」
とか言いながら彼女がいないのは、モテないからではなく、作ろうとしないからだ。職場にも女性はいるが、恵治が“彼女に求める要素”を備えていそうな女性が見当たらないだけな訳で……。
「…ま、そういうことだから、暫くはよろしくな」
そう言って部屋を出ていった恵治。
「…曰く付き、か…」
包帯が巻かれた右腕を睨む。
《ま、霊を扱うことを生業としてりゃ、曰く付きなんざしょっちゅうだろうな》
「そうなんだけどね」
そう言って布団の中に潜ると、寝息を立てる夏希だった。