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□ねじれのいち
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彼の人が時折、自身の左腕の傷を見つめていることに虎若が気づいたのは最近のことである。

その時折というのは、夕刻であったり、明け方であったり、昼下がりであったり、とまちまちではあったが、必ずその時は彼の人の周りに人はおらず、その様子を虎若が遠くから盗み見ているのである。

その傷というのは、昔というにはそれ程過去でもなく、最近というには長い時が経った様な時期に、虎若を庇った彼の人が受けた鉄砲の傷で、彼の人の腕を撃ち抜いたのは虎若の父が率いる鉄砲隊と敵対する毒笹子城という城の忍だった。

この日も、また、虎若は彼の人を盗み見ていた。

時刻は夕刻だった。縁台に座る彼の人は自身の腕の傷を見下ろして静かに撫でている。


声をかければ届く距離だったが、虎若はそれができない。西日に照らされる彼の人の表情から目が離せないでいるのだ。



彼の人はいつもの感情を感じさせない無表情でありながら、口唇は固く結ばれ、黒い瞳は微かに揺らいでいた。今にも泣き出しそうな表情だったが、しかし、それ以上は動くこともなく。ただ静かだった。いつか、掛け軸で見た観音様の様な顔だった。それは虎若が見たことがない顔だ。

彼の人が干渉されることを好まぬ人であることを虎若は良く知っていた。しかしながらその顔は見る度に虎若の心中を騒がせるのだ。


放っておけば消えてしまいそうな彼の人。西日に照らされながら傷を見つめる瞳に滲み出る慈愛。それ以上に深い虚無と疲れ。それなのにその姿に纏い付く理由不明な幸福感。

繋ぎ止めなくてはという焦燥と、彼の人の、虎若には理由の計り知れない慈愛に対して感じる胸の痛み。彼の人の幸福の気配を壊せない思い。

虎若はこの日もまた彼の人に声をかけられなかったのである。


ねじれのいち




end.


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