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□超現象もしくは夕暮れ
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最初それを見た時、俺は、自分は気が触れたのだと思った。

半透明の奴が俺の狭い部屋の汚い床に座っているのを見た時は、恐怖とか驚愕よりも、奴がまた新しい悪ふざけを始めたのかとしか思えなかったが、奴の肩に伸ばした手はすかっとすり抜けてぶらりと意味なく自身の太ももの横を揺れた。

そこで始めて、僅かながらの驚愕と俺は気が触れたのかという疑惑が湧いた訳である。

奴は馴染みのある涼しげな双眸(その長い睫毛までもうっすらと半透明である)で呆けた顔の俺を見あげていた。




それから数日後に毒笹子領内に届いた風の噂で、俺はこの非常識かつ、非科学的な情景を半信半疑ながら理解することができた。奴は未だに俺の部屋に静かに座っている。


『なあ、お前、死んだんだってな。』

『 』

『俺を取り殺しにでも来たのかよ。』

『 』

奴はぱくぱくと腫れぼったい口唇を動かす。

音は出ない。聞こえない。
それは、金魚の様で、少し滑稽である。

『 』

それでも、その口の動きから意味をつかみ取れた。
その事が、何故か不快だった。

両手を伸ばして、抱き寄せる。否、抱き寄せるふりをしてみる。すると、奴もその半透明の腕をそろそろと伸ばし俺の背中に回すふりをした。幽霊というのは触れると冷たいと思っていたのだが、腕の中の奴は冷たくもなく、寧ろ、僅かに暖かい。寝起きの布団の抜け殻の様な頼りない温もりである。でもこれが奴の体温の残りカスなのかもしれないのだ。

『声、が、聞きたい。』

思うと同時に言葉が出た。
その事に俺は少し驚いたので妙に上擦った声になった。

『声が、聞きてえよ。』

確かめる様にもう一度呟いてみる。奴の低く複雑な響きの声を脳裏に思い浮かべても、それは酷く遠い。

俺はその声が、自身で思っているよりも、とても好きだったのかもしれない。

『 』

ふと腕の温もりが消えた。

『照星。』

奴を呼ぶ響きのよそよそしさに、俺は今まで奴の名を殆ど呼んだことが無かった事に思い至った。

埃がちらちらと西日に光る部屋で、俺が一人虚空を抱きしめている。

『ああ。』

俺が、ただ、一人、で。

『ああ!』

自身の肩を抱き寄せて駄々っ子の様に首を横に振った。無様だと思いながらも早まる心の臓の鼓動と血が逆流していく様な感覚に自身の肩をがりがりと引っ掻いた。

『ああ!』

奴は最後の最後まで、なんと勝手で、なんと酷い男であったか。理由もなく静かに現れ、突然に消えて、跡も残さないとは。なんと、なんとまあ!

『あああ!』

俺は喉から溢れる声を止めれなかった。耳の奥がごうごうと煩い。


俺はお前の声が聞きたい。


超現象もしくは夕暮れ

end.


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