夢
□花雨
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耳をくすぐる柔らかい音に目を覚ました。
淡くぼんやりと霞んだ空から落ちてくる、細い細い銀の糸が、さらさらと咲ききっていない桜の木々を洗っていく。
(なんや、雨か)
誰かが、自分の名前をそっと呼んだのかと思った。
優しい柔らかな、声。
例えば、彼女の。
(あほくさ)
もう一度、目を閉じる。
午後の授業が終わるには、まだもう少し時間があった。
(ぬくなってきた言うても、まだまだ朝晩冷えるしな)
帰りの傘、どないしよ。
用意の良い彼女の事だ、傘ぐらい持っているだろう。
昇降口で待ち伏せして、入れて貰うのが一石二鳥でオイシイが、彼女を捕まえる前に他の子に捕まる確率の方が高かった。
他の子と一緒に帰る、というのはまずい。
非常にまずい。
しかし、彼女が来るまで待つ、というのはもっとまずい。
それでなくとも、ここのところ自信のなさに拍車のかかっている彼女のことだ、これで想い人に勘違いでもされようものなら――
勘違い、上等やん。
何を心から応援してんねん。
勘違いさせて、彼女が振られたら、こっちにもチャンスが回ってくるってもんやんか。
お人よしにも程があるで。
内心、苦笑する。
(あーあ、なんやつまらんわ)
ふわ、と生あくびをして、覚めてしまった意識をゆっくりと暗い水底へと沈めた。
「あ」
人もまばらになった昇降口で、思いがけず彼女と鉢合わせた。
「今、帰り?」
遅いね。
校庭の桜のように彼女はふわりと笑う。
そっちこそ。
そう言いかけて、口をつぐむ。
こんな些細なことを言うにも一々逡巡するか、オレは。
昔のようにぽんぽんと言葉が出て来ないのがもどかしい。
しばらく、互いに押し黙ったまま、しとしとと落ちてくる雨粒を眺めていた。
「止まないね」
空を見上げたまま、独り言のように彼女はそう呟く。
薄い雨雲を透かして、西の空が燃える。
夕陽を映して、きらりと彼女の頬が橙色に光った。
「自分、帰らへんの?」
空を見上げたまま、いつまで経っても帰ろうとしない彼女に、意を決して言葉を掛ける。
くりくりと大きな瞳をこちらに向けると、悪戯っぽく笑う。
「傘、持ってないんだ」
珍しやん。
そう、言いかけてまた口をつぐむ。
今日はなんだか、いつも以上に言葉が出てこない。
お互いに黙ったまま、鈍色の空を眺める。
日が傾き、少し暗くなる。
淡い夕闇が満ちたグラウンドをふたつの影が横切った。
赤い傘の下で寄り添うように歩く、ふたつの影。
「……っ」
反射的に彼女の目を塞いだ。
「……まどか?」
小さな顔は、オレの片手で殆ど隠れてしまう。
手の平に当たる睫毛がくすぐったい。
(濡れてる?)
彼女を隠す手に、僅かな湿度を感じた。
しかし、彼女は何も言わない。
されるがまま、オレの腕の中に閉じ込められている。
赤い傘が校門を出て行ったのを確認してから、そっと手を離した。
「美奈子……ちゃん?」
ほとほとと零れ落ちる雫を拭いもせず、彼女は力無く微笑んだ。
「ありがと」
なにが、とかすれた声を喉から搾り出す。
そんなこと、聞かなくたって解ってるのに。
「見えないように、してくれたこと」
ほんと、ありがと。
彼女のほうを見ることが出来なかった。
なんでありがとうなんて言うん。
自分、見えとったんやん。
なんでそんな顔で笑うん。
オレは、
「私、帰るね」
「帰るって自分――」
ふわり、空気が流れる。
鞄を雨除けに掲げて、彼女は走り出す。
「ちょ、ちょお待ち……!」
慌てて、上着を脱ぎながら追いかける。
追いついて、彼女の頭からそれを被せたら、思い切り振り払われた。
「いらないっ」
相変わらずぼろぼろと涙を流しながら、睨みつけられる。
こんなに強い目をする子やったやろか。
こんなに綺麗な表情の子やったやろか。
見とれそうになる自分を心の中で叱咤する。
「アホ!水も滴るええ男って言うやろが!」
思わずキツイ声音になった。
大きな目を見開いて、彼女は立ち止まる。
なにが?
そう、真っ黒い瞳が尋ねてくる。
あかん。
完全にスベった。
「せっ……せやから!水っ!水……滴んのは!その……男のトッケンや!言うてんねん!」
きょとん、と見上げられて頬が赤くなる。
あかん。
ほんま最悪や。
ヤケクソ、と苦しい言い訳を重ねる。
「美奈子ちゃんがびしょ濡れになるんは、越権行為やで!法律違反や!」
やから、茶でも飲みながらで雨宿りしていこ?な!
勢いで、そこまで言い切る。
息が上がっている。
どんだけ必死やねん。
「せやから、その……」
もうこれ以上、何を言い繕っても失言を繰り出すことしか出来ないような気がした。
それでも、重たくて回らなかった舌が懸命に動く。
彼女に泣き顔なんて似合わないから。
何か考えるようにうつむいていた彼女は、オレと目を合わせると、こくりと頷いた。
ほっと安堵する。
失言の数々を彼女は寛容に受け入れてくれたらしい。
「ほ、ほな行こ……」
「あ」
夕日。
いつの間にか雲の隙間から真っ赤な太陽が覗いていた。
(何も今、晴れることないやん)
まどかはがくりと肩を落とす。
そんな彼の袖を、彼女はちょん、と引いた。
「ね、なんだか喉渇いちゃった」
行こ?お茶して行くんだよね?
そういって首を傾げた目にもう涙は無かったから、体当たりのギャグもたまには悪くないんじゃないか。
勝手に笑う口を隠しながら、まどかは歩き始めた彼女の後に続いた。
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はじまりとおわり。
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