長編集

□洒涙雨 new!
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不自然と言えば不自然な程あまりに短い期間に孝明天皇,徳川家茂公のどちらもが亡くなった為に、市中には暗殺されたのだという噂もまことしやかに囁かれている。実行犯ではなく黒幕として具体的な名も挙がっているのが不思議ではあるが、その人物が倒幕派で知られている辺り、あながち出任せとも言い難く噂は本当なのかもしれない。真偽の程はともかく、どう転んでも討幕派が勢いを増すのは避けられないだろう。だとすれば、佐幕の自分達は今までのようにはいられまい。
多摩と云う直轄天領地に生まれ、江戸城下に生活の糧を持ち、将軍警護の為に上洛した。夢叶って旗本にはなったが主と仰ぐ徳川が、今変わろうとしていた。武士になる、その夢は徳川あっての事だった。だが変化は訪れたのだ。権威であった朝廷は権力をも持ち、権力であった幕府はその存在すら危うくなってしまっている。土方にも天皇を敬う気持ちはある。しかし関東に生まれた土方には遠い存在で、実の所、その恩恵を感じた事も無ければ、遠き昔より連綿と続く天皇家の威信を感じた事も無い。もっと実務的に考えれば、二百六十年余りの長い時間政から離れていた朝廷に、西洋諸国との外交や浮足立っている諸藩への牽制と統率、国内の治安維持や膨大な金
銭の流れ全てを掌握出来るのか甚だ疑問だ。だがしかし、そう遠くないうちに、望むと望まぬに関わらず幕府は瓦解するだろう。流れが止まり自浄出来ぬまま淀み濁って底の見えぬ沼に、新しい流れが入り込みそれまで溜っていた水を押し出していくように、徳川幕府は国政という場から押し出されようとしているのだ。時代は変化を要求していた。時代が求める変化は、推し進める事は出来ても、最早押し留める事は不可能であろう。
そしてまた、新選組にも変化は訪れていた。

「戻ったか。副長、後は頼んだぞ」

看板を掲げた屯所の門前に籠が泊まっていた。供揃えをし、公家よろしく真っ白に塗りたくったニカリと笑う顔に浮かぶ黄色い歯が土方の眉間に自然と皺を寄せていく。

「城ですか、局長」

直参旗本となった喜びに浸るこの姿を見る度に、土方は苦いものが込み上げてくるのを止められないでいる。分からなくはない。江戸の頃からの宿願が叶った喜びは自分だとて変わらない。侍の真似事で満足しておけ、百姓は百姓なのだと嘲笑った連中の鼻をあかしてやった事実は土方を小踊りさせるに充分な筈だった。だが土方は喜べなかった。手放しで喜ぶには、良くも悪くも土方の先見の明は鋭過ぎたのだ。近藤が見ている
明るい未来が土方には暗雲立ち込める暗いもので、近藤が喜ぶ幕臣という立場は土方には手枷のように感じられる。何故近藤が子供のように無邪気に喜べるのか、理解出来なかった。幕府は既に風前の灯火だ。一度は優勢に盛り返したが長州出兵の失敗に際し、孝明天皇の支持を得たがそれによる威信の失墜は免れ無かった。それが何を意味するか、近藤は気付いていない。否、気付いていても目の前の“見廻組与頭格”という名の宝物を大事にするあまり、見て見ぬ振りをしているのかもしれない。
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