短編集

□思う所有り
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勝太は道場の入り口をちらちらと盗み見た。
そろそろ道場に来る筈の時刻だと言うのに、惣次郎は姿を見せなかった。フデに押し付けられた沢山の仕事が終らずまだ母屋にいるのかもしれない。勝太にはフデが何故惣次郎にきつく当たるのかよく分からない。早朝から掃除や炊事の手伝い、薪割り洗濯と、あの小さな体に無理としか思えない程の仕事を、フデは次々と言いつける。泣き言も言わずに黙々と働く惣次郎を見ていると心底辛いのだが、うっかり手を貸せばフデの機嫌を損ねてしまい更に量が増えてしまうのも既に分かっているのでそれも出来ず、結局何も出来ないでこうして道場で待つしかない現状を勝太自身苦々しく思っていた。

「若先生、ここは私が見てますから探しに行かれては如何ですか?」

如何にも落ち着かないといった様子で視線が右往左往しているのを、こっそり笑いながら見ていた義父周助の門弟で勝太には兄弟子にあたる一人が、勝太の焦りがじわじわと道場内に伝わり始め練習中の門弟達の集中力が欠けだしたのに気付き、その原因である惣次郎探索をやんわりとした口調ではあるが、行けと云う強い意味を込めて勧めた。

「いえ…、仕事が終わらないのかも知れないから探しに行くと云うのは…もう少ししたら来るでしょう」

自らが落ち着かぬせいでソワソワとしている道場内の空気に微塵も気付いてはいないうえに、宗家代理という立場と、フデの逆鱗に触れてしまうのではないかという心配で二の足を踏む勝太に

「師匠がそんなでは皆落ち着いて鍛錬できません。行って頂いた方がかえって良いんです」

そうきっぱりと言い渡すと、早く行けとばかりに背中を押した。その言葉にようやく浮足立った雰囲気に気付き、勝太は頭を小さく掻くと困ったように笑った。
「…すみません。ちょっと周りを見たらすぐに戻りますので、お願いします」
「分かりました」

にこやかに笑って見送る兄弟子を背に、道場を出ると勝太は母屋に向かって小走りに足を運びだした。
台所を覗き、裏庭を覗くがどんなに見回しても姿が見えない事に、勝太は本格的に焦り始めた。いくらフデでも周助が決めた惣次郎の鍛錬の時間に使いに出すはずはない。

「まさかな…」

少し前の事だが、見ず知らずの浪人風の男から惣次郎は文を貰った。下働きに忙しくあまり勉強する時間のない惣次郎は、癖の強い崩した難しい文字の羅列に音を上げて

「若先生、何と書いてあるのでしょうか?」

と勝太に文を渡したのだ。どれ?と目を通した書面は、事も在ろうに“恋文”であった。切々と思いの丈の綴られた文面をそのまま読んで聞かせられる訳もなく、その場は適当に誤魔化したが、果たしてそれが正しかったのだろうかとずっと悩んでいた。何の返事も貰う事の出来なかった相手は業を煮やして直に返事を貰おうと道場周りを未練がましくうろついているかもしれない。使いに出た惣次郎と遭遇した可能性も大いに有り得る。だが文の本当の内容を知らない惣次郎と「返事が欲しい」「何の話か分からぬ」で押し問答となり、切なる思いを無下にされたと怒った相手が、有無を言わさずに惣次郎を連れ出して不埒な事を無理強いしたら…!良からぬ妄想が脳内でムクムクと肥大し、収拾がつかない。勝太が一人焦れていたのはこれがあったからだ。
おとなしやかな見掛けに反して意外と短気で意地っ張りの惣次郎の事だ、一度知らぬと言った以上、何かしらの行き違いがあると気付いても前言撤回出来ず、引くに引けない状況に陥ってる筈だ。いくら天才肌の剣捌きとはいえまだ子供。下働きの最中の竹刀も木刀も持っていない丸腰の状態では“天才”など何の意味もない。こんな場合に役立つ柔術は惣次郎の最も苦手とするもので、お世辞にも上手いとは言えない。しかも惣次郎は年令にしては小柄な方だ。大人の力で押さえ込まれたら太刀打ち出来ないだろう。
きちんと内容を伝えるべきだったのかもしれないと思った。知っていれば対処の仕方もあるが、分からぬ事に苛立ち焦る心では相手を怒らせてしまうだけだ。

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