短編集

□兆し
1ページ/3ページ

慶応三年十二月二十八日、朝廷に恭順の意を示す為に二条城から大阪城へ退出していた幕府方へ江戸より知らせが入った。それは江戸市街における薩摩の度重なる狼籍に、業を煮やした慶喜の留守を守る淀藩主老中稲葉正邦の指示により庄内・上山・鯖江・出羽松山各藩が江戸薩摩藩邸へ討ち入ったと云うものであった。その知らせに抑えつけられていた討薩強硬派は奮い起った。薩摩を討つべしとの声は即座に巨大な波となり、開戦を望まぬ者達までを飲み込んでいった。この時既に、慶喜にも板倉勝静にも、開戦と云う時流の波を塞ぎ止める力は残ってはいなかった。





大阪城内は痛い程の緊迫感に包まれていた。主だった者は皆険しい表情で足早に過ぎて行く。
先立って左肩を銃弾で粉砕され、医師松本良順の元で治療を受ける近藤は、この緊迫した空気の中で忘れ去られた存在と化していた。無理もない…たった半年前に幕臣に取り立てられたばかりの、しかも怪我人の自分に出来る事など何も無いと近藤にも分かっていた。ジクジクと痛む肩を押さえひっそりと置かれた愛刀虎徹を見つめた。何度となく握り締めた柄の感触が動かぬ左腕に移り香のように薄く僅かに残っている。

─以前のようには動かぬと覚えておきなさい

後悔…とでも言うのか。二条城に残っていた幕府役人に、現状を訴え意見を請うと言った近藤に土方は

「それが何の役に立つ?どうにもならんさ。止めておけ」

そう言った。それでも奉行所周りを我物顔でかっぽする長州藩士や、隊士達との小競り合いを繰り返す志士達に我慢がならず、かと言って幕臣となった手前自らの意思で勝手に動く訳にも行かず、苛立ちを抑える事が出来ずに土方の制止を振り切って飛び出したのだった。だが結局、土方の予想通り何の成果も得られなかったうえに、帰り道に狙撃されこの有り様だ。あの時、土方の意見を聞き伏見奉行所を出なかったら…今頃伏見の屯所で、緊迫する場の最前線で采配を振っていたであろう。だが現実は城の片隅に一人ポツンと捨て置かれ、抜かれる事の無い愛刀と向き合っているだけ。肝心な時に、徳川の為にも働けず大将としての役割も果たせない、愚かな自身に腹が立つ。情けなくて仕方ない。自嘲の笑みが浮かんだ顔はやつれて沈み込んでいた。
自分は公家や大名になろうとしたわけでは無かった筈だ。それがどうだ。いつの間にか剣を握るより本を捲る日が増え、屯所にいる時間と、会津藩邸や二条城にいる時間が逆転した。向いてないと分かっていても“所詮は下賎の出よ”と言われまいと、幕臣に取り立ててくれた徳川の為、己を局長と仰ぐ新撰組の為、天然理心流宗家の名を汚さぬ為と、必死に政を学んだ。だがいったいそれが今何の役に立つと言うのか。付け焼き刃の知識は何の意味も為さず、現状を見れば自分がどのように思われているかは明白だ。どうしてこうなってしまったのだろう。今更言っても仕方のない事が頭の中を廻っている。近藤の懐の内で京に来てからの月日全てが静かに色褪せて行こうとしていた。

─スパンッ!

突如開かれた襖の方へ、反射的に顔を向けた。そこには松本の助手が青い顔で立ちすくんでいた。御陵衛士との一件以来、あまり体調の良くない総司の治療と看護に当たっている青年の顔は青褪めている。

「沖田が…どうかしましたか?」
「近藤先生、お願いします!どうか沖田さんを止めて下さいっ!」







.
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ