短編集

□落涙
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新しい屯所を眺め、総司は肩を落とした。出入りを禁じられたわけではない。それでも、今は入って行く気にはなれなかった。
不動堂へ移る時、近藤は近くの妾宅を総司の住まいと定めた。その必要はないと訴える総司に近藤は

「体を休めろ。静かに為ていれば治るのだと松本先生もおっしゃっているだろう?お前がいなくては困るのだ。いいな」

そう言い渡した。いったい誰がそんな事を信じているというのか。労咳と宣告された本人ですら信じていないのに。目の前に見えている屯所との僅かの距離が遥か彼方に思える。
西本願時から移ったばかりの屯所の並びにある妾宅には、日々の鍛錬に励む隊士の声も竹刀のぶつかる音も砲術訓練の掛け声も聞こえてくる。その真っ只中で聞いていた筈の全てが、総司を拒絶しているように思えてならなかった。

「本光寺にでも行くか」

境内で子供達が遊んでいるかもしれない…そう思い、屯所に背を向けプラプラと歩き始めた。
自分が不治の病かと、他人事のように思う。宣告されて大分経つというのに今でもまだ他人事のようで、実感が沸かない。隊務は以前の半分近くに免除されたが、撃剣師範としての役割はこなしている。道場での激しい鍛錬に時折咳き込む事はあるが、足捌きにも剣筋
にも微塵の乱れは無い。体は動くのに、まるで腫れ物に触るかのような周囲の態度に何より苛つく。皆に気を使わせてしまうのが気ぶっせいで、職務の無い時に屯所へ行くのを止めた。
自然増えた独りでいる時間がこんな詰まらないと初めて知った。考えて見れば、物心着いてから一人でいた時間はほとんど無かった。江戸では何時もフデの目がひかっていたし、京では大勢の隊士がいた。何時でも誰かの声が聞こえていた。当たり前だと思う事すらなく、それが呼吸するように自然だった。
悲しいのか、寂しいのか、悔しいのか、恐ろしいのか、それすら分からない。分からなくて涙も出なかった。
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