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□帰ってきてよ(完)
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帰ってきてよ
「今日も、高杉のやつ来ないな」
時刻は間もなく午前10時。
高杉以外は全員登塾している。そして、現在お泊り会の準備をしている。1週間前、今日に決定した。
その立案者は、今、桂の隣にいる。銀時だ。
「もう来ないんだろ。言ってたじゃんか。あいつの父ちゃんが」
「そう言いながら、今日で4日目だぞ。お前が門の前に来るのも。その言葉も」
「……」
もう高杉は村塾に来ない。そんなこと、桂は信じたくなかったが、口で言っている銀時も信じたくないのだ。
喧嘩友達の来ないこの3日間の銀時の機嫌の悪いこと悪いこと。と言っても、周囲に当たり散らすのではなく黙ってムスッとしているのだ。纏う空気が怖くて、他の塾生は銀時と距離を置いていた。
襖は倒れない。障子紙は破けない。墨はひっくり返らない。畳は舞わない。
平和なはずなのに、どこか平和でない。
村塾の平和の構成成分に銀時と高杉の喧嘩が多分に含まれていたことを桂は、まざまざと感じた。
「なぁ、ヅラお前もボンボンだろ」
「その言い方はいろいろと些か不快だが、まあそうだな。あ、ヅラを認めたわけじゃないぞ」
「お前のとこの親は、お前がココに来ることどう思ってんの?」
「さあ。少なくとも反対されてはいないが」
「俺や農民出だけじゃなくて、ヅラみてぇのもいるのに、何で」
「……こればかりは親の方針だからな」
それからまた2人して、門から外を眺め続けていると、こちらへ向かってくる小さな人影が見えた。思わず半歩程体が前へ。声も出かけた。出かけたというのは、それが高杉ではないとわかったからだ。
小さい人影は途中で立ち止まると、後ろを振り返った。その方向からもう1人、腰の曲がった老翁が現れた。
老翁を急かして、桂と銀時の目の前を走り抜けて行った小さい人影の姿は、高杉と体格はほとんど変わらぬものの、顔立ちは幾分か幼かった。
座り込んでいた銀時が、尻についた土埃を叩いて立ち上がった。
「銀……、どこへ行く?」
「昼寝」
「昼寝って、昼食もまだなのに?」
それ以上、何も答えず、銀時は塾舎の裏へ行ってしまう。
「午後までには終わらせて戻って来いよ。俺ひとりに仕事を押し付けないでくれ」
苦笑を浮かべて、桂は銀時の消えた塾舎裏へ声をかけた。
高杉の両親は、息子が松陽の村塾へ行くのをよく思っていない。
そのため、父親などは毎朝自ら息子を藩校へ送り届けることまでしていた。
そこまでされて、まさか父親の手を振り払って逃げるわけにも行かず、ここ最近、高杉はしぶしぶ大人しく藩校へ通っていた。
3日間だけ。
4日目の朝、いつになっても起きて来ない高杉を起こしに部屋へやってきた母親に高杉は言った。
「母上……お腹が痛い」
母親は「まぁ」と声を上げはしたが、驚いたふうではなかった。元来、病弱な高杉は、よくこうして体調を崩すことがあるからだ。
「熱はないようですけど……きっと、藩校へ行って緊張が続いたのでしょうね。今日はゆっくりおやすみなさい」
(それなら、好きに村塾へ行かせてくれればいいのに……)
思ったが、それは口には出さなかった。
「お医者さまを呼びますか?」
「いい。休めば治ると思うから……。お昼もいらないから、用事があれば、自分で言いますから、部屋にも来なくていいです」
母親が襖を閉め、足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなると、高杉は布団から抜け出した。
既に袴を身につけており、お気に入りの三味線に歩み寄る足取りも腹痛を訴えている者のそれとは到底思えない。
そう、仮病だった。
健康なとき部屋に閉じこもっているというのは、存外退屈なものだ。