音色を響かせて

□08.交渉
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長き、短き人の生。
息を吸って吐いて、空腹を満たすためには食物を探し、疲労が溜まれば身体を投げ出して眠りにつく。
嬉しいことがあれば笑い、悲しいことがあれば涙が零れる。怒りに駆られれば声を荒げるし、恐怖に染まれば身体は震えだす。

全ての人は別個でありながら個の現象とその内側の想いを察し、共有することができうる。
だからこそ全ての出来事は過去から未来へ繋がる道理が存在し、普遍的な循環の中に必然として時折の異分子が生じる。それは人が存続するためと言われているが、納得できないと憤りにも似た感情が内側で蠢く。


ただ平穏な日々のもと、生きたいと願っていた。
幼心に宿した、今にまで繋がる始まりの願いだ。
先天的か何かの拍子にかはわからないが、同時に望んだ平穏の剥奪を恐れた。なすすべもなく、それは現実になって唯一生き残って、誰の保護もない世界へ放り出された。

奪われた過去があるからこその単純な願いへの執着が生まれ深く深く根付く。そして確実にその身へ茨のように喰い込み、気が付けばがんじがらめに。
これは、忘れられない《終わり》の過去が己の時間を止めたとでもいうのか。
願いごと、願い故に未来を拒否したとでも言うのか。



どうしてだ、と。
きっと皆が望んでいる。そんなどこにでもある簡単な願いだったはずなのだが……。

いつの間にこんなに捻じれてしまったのだろう。
始まりは、誰にでも、ほんとうになんでもない、当たり前の気持ちだったのに……。

だから心の奥深くでは未だに疑問が漂い、それが現実に抗う原動力となって今日から明日へと命を繋ぐ。



それが、朱音だった。









*******





「本当に、もう大丈夫です。たくさんお休みさせてもらいましたから」

「…いいえ。まだ、だめ」


これで何度目のやり取りになっただろうか。交渉は失敗してばかりで、どうにもむずがゆい思いが朱音の中で彷徨っている。

長曽我部軍と豊臣軍の戦が決して数日後、現在朱音、お市、小助は南に下っているところであった。
四国の更に南の地への援軍を求めるための旅路にあった、幸村が統率する一群に身の上を保護されている体で、共に行動しているのだ。皆それぞれ馬にまたがって幸村たちについていっているのだが、朱音だけは身体にはお市によって施された守護の為の魔の手たちが未だに纏われているのである。
もう意識もはっきりしている上に馬を一人で操れる程度に、むしろそれ以上に健康状態も安定している。それなのに頑なに魔の手からの解放を拒否される理由がわからず首を傾げるしかないのだ。魔の手たちによって特に動きを制限されているわけでもないが、一抹の不安を抱える朱音は折を見、隙を見、幾度も掛け合っていたが悉く失敗に終わっていた。



「朱音は後ろの方でじっとしなくちゃいけないの」

「でもそれは元気になるまでと……」

「まだ元気じゃないもの…っ」


お市に介抱されて以来、彼女は時折なにかに脅かされるように…苛ついたように、言いつけるような口調になっていた。
それまで…一度離別する前も何かと気にかけてくれていた様子ではあったものの、こうした風に強い物言いをした事はなかったため、多少の違和感を感じざるを得なかった。


「あの、小助…」

「俺もお市ちゃんに賛成…ってほどでもないけど。ま、大事をとっとこうよ、朱音ちゃん」


乗馬経験の少ないお市の側について万一に対処できるように並歩している小助にこの状況の打開を託しても、どうやら彼はお市にお味方する気らしい。
正直この黒い手に護られてから、手たちによる《何らか》の治療によって、本当に健康面は申し分ないほど調子が良くなっているのだ。元々回復の調子は早い方だが、それすらもかわいく思えるほどの効力である。この2,3日でこれまでの戦場生活の中で一番の万全状態の身体…といってもおかしくないくらいだ。

なのに、なぜ?

今は何を言っても聞き入れないようだ。明らかにお市の顔が先ほどよりむくれてしまっている。朱音を案じてこそ、ということだけは本人もわかっているのでこれ以上は何も言えず、また馬を操ることに意識を向けざるを得なかった。


――――――今更のように目覚めた婆沙羅の力が御者自身を蝕むことは、本人には伝えないでいる。
むしろ本人は己にそんな力が発現していることすら気づいていないと見えるため、好都合であった。彼女は知るべきではないと、あの夕暮れの浜にいた顔ぶれの暗黙の了解であった。話し合う必要すらなく決まった選択肢だ。

お市に限らずとも、朱音が自ら望んで婆沙羅の力を使役した時この世から消えるという予測が、十分すぎるほど現実味を帯びているとこは佐助も小助も重々承知している。それだけの過去によって捻じ曲がった気質が彼女には備わっているために。
試みるは事実の隠蔽である。









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