世界が何と言おうと(トレス夢)
天才学者ゼベット・ガリバルディ博士によって作られたHC・トレス・イクスは、人間などでは到底敵わない優れた人工知能を持っていた。
その知識量たるや、教皇庁付属の大図書館の蔵書を凌ぐとさえ言われている程だ。
世界中の知識の欠片は、データとして瞬く間に編集保存され、地層が折り重なっていくように量を増やしている。
もはや、それは彼の頭の中に世界の分身が構築されていると言っていい。
新たなデータが一つ入れば、以前まであったものとプロセスが結ばれる。根のように張り巡らされた回路は、まさにユグドラシルを支える根幹そのものだった。
トレスはいつも必要な知識を必要な時に、枝葉の先からもぎ取る。その動作には少しの淀みもなく、彼の世界樹はいつだって絶対の存在でもってあり続けた。
しかし、その存在が初めて揺らいだ。枝がしなり、葉がざわめく。
たった二つ。目の前のシスターが落とした音の響きは、たかがそれだけだった。
脳内にある膨大なデータから見れば、比べようもなく小さな言葉。
だがトレスの世界はそれの意味も、どう自分が対応すればいいのかも、瞬時に教えてはくれなかった。
藍色の瞳でこちらを見つめる彼女の声に、いとも簡単に世界樹は動きを鈍らせた。
不安定なパルスが神経回路を爪先で引っ掻き回し、トレスは視覚センサーの奥がチカチカと明滅するような感覚に襲われた。
そんなものは、錯覚だ。
判断するも、では何故その錯覚が起こったのかは分からなかった。
「トレス」
シスターが、ふわりと微笑む。
彼の名に、意味などないというのに。ただの識別番号にすぎないというのに。
彼女はいつもトレスの名を呼ぶ時、幸福をその瞳にたたえるのだ。
また彼女がさきと同じ言葉を口にする気配に、葉がざわめき警戒を露にする。
手の中に落ちてきた答えを、トレスはそのまま口にした。
「卿のその感情は間違っている」
世界樹が出した答えは、彼女の口にした言葉の否定だった。
そう、間違っているのだ。そんな言葉を、機械である自分に向けることなど、正しい訳がない。
思考ルーチンは、全面的に己の対応を是としている。
「そのような言葉は、俺ではなく人間に向けるべきだ」
収容されていたデータから、マニュアルに乗っ取った返答を紡ぐ。こういった事態に、示すべき見本そのものの返答だった。
人間に、という自身の声が聴覚機器の中で反芻される。
彼女の周辺にいる人間たちの顔が、思考を埋め尽くした。その内の誰かに、彼女が二つの音の響きを囁く様も。
ノイズが、走る。
視覚だけではなく、思考まで占領した黒いひび割れに、トレスは手の中の答えを握りしめた。
不快な音をたてて、データが歪む。
シスターはトレスの答えを静かに聞いていたかと思うと、ことりと首を傾げた。
疑問を示すジェスチャーに、逆にトレスが訝しむ。彼女は賢い女性だ。トレスの発言を理解できないわけではあるまい。
それなのに、彼女は分からないなーと実にのんびりとした口調で呟いた。
「ねぇ、トレス。その答えは最もだ。今まで散々私も色んな人に言われてきたよ」
でもね、と彼女は一つ前に踏み出した。
二人の間にあった距離が僅かに埋まる。腕を伸ばしても、ギリギリで指先は触れない。
そんな境界線とも言える縁で、彼女は微笑んだ。
「私は、君の答えを知りたいんだ。知識やデータの世界のじゃない、君自身の答えを聞きたいんだよ」
白い指が示したのは、頭ではなく胸。
ぐしゃり、と踏み出した足の裏で何かが潰れるような、そんな音を聞いた気がした。
踏み出した一歩は、彼女のそれよりも大きい。
「卿は人間で俺は機械だ。その言葉も感情も本来、同じ人間に向けるべきものだ」
トレスはもう一歩、彼女との間にある空白を埋めた。
塞がっていたはずの手には、もう何もない。
その空いた手でそっと彼女の手首に触れた。
柔らかな皮膚の下で、血液が確かに鼓動を刻んでいる。
「だが、シスター。俺はもう一度卿の言葉を聞きたいと望んでいる」
誰かに、彼女がその言葉を囁く様を見たくなどなかった。例え、自分に囁くことが間違いで、他者へのそれが正しいことであっても。
藍色の瞳が、先程以上に柔く融ける。そのまま、甘い滴が零れ落ちてしまいそうだった。
「私はね、君がそう言ってくれるなら、世界なんてどうだっていいんだ。世界中にお前は間違ってるって言われたって、構わない。
ねぇ、トレス。私は君が『好き』だよ」
彼女が口にしたたった二つの音に、トレスの聴覚は支配された。もはや、世界樹のざわめきも何も聞こえない。
繰り返し囁かれる『好き』と、腕の中から体に染み込む彼女の鼓動が、今のトレスにはすべてだった。
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このくらい感情的なトレスが書いてて凄い楽しい。
一々混乱したり振り回されてたりしたら、可愛いなーと。