しらないことが増えて(エース夢)
朝から山と積まれた料理の数々を胃に収め、エースは満足げに腹を撫でた。
美味かったよ、ありがとう。満面の笑みでのごちそうさまに、コックたちはそれまでの慌ただしさも感じさせない笑みで、いいってことよと手を振る。
さて、今日は何をして過ごそうか。
人も少なくなった食堂を出ようとしたエースは、開いた扉の前に立っていた人物に目を丸くした。
相手は今まさにノブに手を伸ばそうとしていた所らしく、腕を上げた姿勢のまま止まっている。
船に染みついた潮の香りが一瞬消え、消毒液の匂いが鼻を掠めた。
白衣の裾を揺らして立っているのは、白ひげ海賊団の数少ない女性医師だ。
急に開いた扉に驚いていたようだったが、それも瞬き一つ二つの間だけ。三つ目の時には、既にいつもと同じ無表情に戻っている。
一つ後ろに下がって軽く会釈する動きに、肩口からさらりと髪が零れた。
「おはようございます、エース隊長」
「お、おはよう」
「すみませんが、出るか退くかどちらかしていただけませんか」
そちらに用があって来たので。彼女はちらりと食堂の奥を伺った。言われた言葉を頭が噛み砕くまで、いつもの数倍時間がかかる。
まさかここで彼女と会うとは、微塵もエースは思っていなかったのだ。
日の昇っている時間帯に、彼女の牙城である処置室以外でその姿を見たことなど両手の指で事足りる。
だから、今ここに立っている船医という存在が、エースには幽霊か白昼夢のように思えて仕方なかった。
もんもんと考え込むエースに、そんな失礼なことを考えられているとは知らない船医が訝しそうに首を傾げた。
「隊長? 聞いてますか?」
「え、あ、えー、本物?」
「……目か、頭か。どちらの病気ですか?」
回り始めた頭でやっと彼女の存在が実態であると認識したエースに、船医は瞳を細めた。微笑んだのではけしてない。呆れているのだ。それもかなり冷たく。
「いや、ごめん。まさか、こんな所で見るとは思ってもみなかったから、つい」
「あなたは私をなんだと思っているんですか。食事をしなければ、人間は生きていけませんよ」
「そうなんだけどさ。いや、今まで食堂で会うことなかったから」
「まあ、そうでしょうね。私いつもは朝一番に来ていますので」
「え?」
こちらの驚きも放置し、船医はつかつかとエースの脇をすり抜けて行った。
まばらな人波をすり抜け、カウンターへ一直線に向かう白衣の背中を慌てて追いかける。
釣りや手合わせなど、やろうとおもっていた今日の予定はひとまず放り出した。
カウンター越しにコックと言葉を交わ、そのままスツールに腰を下ろした船医の隣に、自分も滑り込む。
ついさっき、去っていったエースがまたすぐ戻ってきたことに、コックたちが忍び笑いしている。悔しいが、あまりに間抜けなのは自分でも分かっている。
「朝食はもう済んだんじゃないんですか」
「ああ、済んだけどさ。いちゃ、迷惑か?」
「いえ、そういうわけでは。エース隊長のお好きにどうぞ」
良かった。にかり、と少年のあどけなさと大人の男らしさを併せ持った満面の笑みを浮かべる。普通の娘なら頬の一つも染めそうなものを、向けられた本人はいたって涼しい顔だ。
出されたコーヒーのマグに息を吹きかけ、曇った眼鏡のレンズに眉を潜めていた。完全に、自分の存在<レンズの曇りである。
エースは軽くへこみそうだった。
「いつもは朝一番って、何時ぐらいに来てんの?」
「仕込みが終わってすぐくらいですかね。五時くらいでしょうか」
「なんでまた、そんな時間に」
「人が多い時に来るのはちょっと。あまり得意ではないので」
「遅めに来ればいいじゃねぇか。今日みたいに」
「いつもだったら、この時間にはもう仕事がありますから」
だからと言って、食事を抜くのは考えられないとのこと。不健康そうに見えて、やはりそこは医者だ。
聞けば、時間帯が前倒しになっているだけで三食きっちり取っているらしい。
「皆さんと一緒で、体が資本ですからね」
そう言って、眼鏡の曇りを拭う横顔に、ダイエットのためと食事を抜いていた新入りナースにとうとうと説教をしていた様を思い出す。
今のままで十分魅力的なのに、ご自身でそれに気付かないとは見る目がありませんね。
褒めるでも貶すでもなく、本当にいつもの調子でそう言った船医に、ナースは驚いた後に頬を赤らめていたものだ。
あの時は、サッチの「お前よりもよっぽど男らしいな」との発言にちょっとリーゼントを燃やすのに忙しく、彼女の食生活への疑問を感じる暇がなかった。
「はいよ、お待ち。目玉焼きは、両面ぽくぽくに焼いといたよ」
「ありがとうございます」
物思いにふけっていたエースを、威勢のいいコックの声が現実に引き戻す。
置かれた皿の上、卵の黄身は完全に黄色に染まって、押し付けられて焼かれたのか少しだけ横に広がっている。
食欲をそそる狐色の焦げ目が表にもついていて、ついさっき食べたばかりだと言うのに腹が鳴ってしまいそうだった。
自分が今朝食べたものは、フォークを指せばとろりと黄身を溢れさせる半熟のものだったはず。
小さな疑問に、続いてサラダを持って来たコックに首を傾げた。
「なんで両面焼き?」
「ん? なんでって、嬢ちゃんがそっちのほうが好きだからに決まってんだろ」
当たり前のように返されたのは、成る程よくよく考えなくても、当たり前の答えだった。普通に考えたら最初に行きつくはずの、好みという概念が何故かすっぽりエースからは抜けていたのだ。
と言うよりも、エースの中の船医に対するイメージに、何かを好んで食べるという映像が全く絡んでいなかったのが大きい。
宴の席などで、飲食を共にすることは何度もあったが、彼女は出されたものは文句を言わずに食べるし飲む。
そこに美味しいという表情が伴わないだけで、エースと同じスタイルの持ち主だったのだ。
「なんか、意外」
「あなたが何を考えているか、大体想像はつきますがね」
「う、悪ぃ」
「いえ、別に。私自身も、コック長さんに指摘されるまで特に何も思わず食べていましたから」
言われてみれば確かに、半熟よりも完全に火が通り切ってる方が箸の進みが早かったかもしれません。
随分と他人事のような、自己分析だ。感心しているのかこくりと一つ頷くと、やはり本職の方はよく見てますね、とそんな斜め上な発言で己の好みの分析を締めくくった。
そうして、彼女は丁寧に両手を合わせてフォークに手を伸ばす。何処までもマイペースだ。
静かに食事を始めた手元を、ぼんやりと眺める。
淀みなく動く手は、きっと目の前に出されたのが半熟の目玉焼きでもそう変わらない早さで残さず綺麗に平らげるのだろう。
本当に、コックは何処を見て気付いたんだろう。よく見ているものだ。
遅まきながら、彼女の発言に同意する。
切り分けられた黄身を見つめていたらふいに気付き、エースは愕然とした。
自分は彼女にまつわることで、そういったことを何も知らないのだ。
好きな色、好きな花、好きな本、好きな天気。
その他色々な『好き』が、誰にだって、エースにだって無数に存在している。
仲間内でも、マルコの好きな酒もサッチの好きな料理も知っている。ビスタの好きな詩集も、ジョズの好きな季節も、イゾウの好きな着物の柄も。
それなのに、彼女についての『好き』なものの項目は真っ白なのだ。
今なら一つだけ埋まるけれど、それは自分が見つけたものじゃない。コックが見つけ出して、そして彼女に教えてあげたことだ。
折角一つ埋まったのに、素直に喜べない。自分で筆を持ったとしても、エースは空白に書く程彼女のことを知っていないのだ。
すぐ隣に船医はいるのに、スツールとスツールの間の距離が酷く遠く感じた。
二人の間には、空欄ばかりの紙が敷き詰められていて、大量の「Unknown」の向こう側に彼女はいるのだ。
「……なあ、髪止め壊れたってこの間言ってたよな」
「ええ、長いこと使ってましたし」
「次の島でおれにそれプレゼントさせてくれね?」
「はい?」
「どんなのがいい? 色は? 形は?」
食事の手を止め、訝しそうに船医が視線を寄こす。馬鹿丁寧な断りの言葉が、今にもその口から放たれてしまいそうで、内心酷く落ち着かない。
長いグレーの髪に指を絡ませ、エースはレンズ越しの瞳をじっと見つめて言い募る。
「あんたのためにプレゼントするんじゃないんだ。全部が全部おれのためなんだよ。だから遠慮なんて、絶対しないでくれ。されたら、それでなくてもかっこ悪いのにおれもっとかっこ悪くなっちまう」
エースの視線の真剣さに、船医も気付いたようだ。眉間の皺をほどくと、手にした時と同じ静かさで皿の縁にフォークを置いた。
スツールごとエースに向き直ると、瞳を細める。
今度のは、呆れたんじゃない。
「それでは、お言葉に甘えさせていただきます。ただ、好みは自分でも良く分からないのでご一緒していただいてもよろしいですか?」
思わぬ返答に、エースはぱちくりと瞬きを繰り返した。出掛けるのも人込みも苦痛だとはっきり言ってのける船医が、一緒に出かけようなどと言っているのだ。
しかも、自分の我儘以外の何物でもない提案に乗って、その上笑みさえ返してくれている。
驚きが先に立って、次の島で休みはありますか、という問いに意味のない言葉の切れ端しか返せなかった。
あれ、つーか二人で出掛けるってこれってもしかしなくても、あれじゃね。デートとかいうものじゃね。
青臭い餓鬼みたい呟きが、一瞬で頭の中を駆け巡った。
「エース隊長、顔に大体の思考が表れてますよ」
「いや、まさかそんな流れになるとは思ってなくて」
「良かったですね、棚ボタですよ」
「ボダ餅が自分で言わないでくれよ」
顔を覆い、エースは一つ息を吐きだした。ちらりと見やった船医は、眼鏡のつるの下、僅かに目元を緩めている。
サッチの言葉が思い出されて仕方ない。ムカつくことに、まったくもってお前の言う通りだよ。
「あー、でも。めちゃくちゃ嬉しい」
「そうですか」
「ちょっとくらい意識してくんね?」
「これでも充分してますよ。自分からあなたの口に飛び込んだ身ですから」
白紙だらけの紙の向こうで、彼女が密やかに微笑んだ。
元より、彼女はエースにとっては謎の多い人だったが、今回のことで謎は更に増えた。もはや、両手を広げた所で抱えきれる量ではない。
それでも、知らないことがあることを知らないよりはずっと、今の方が良い。
エースは白い頬に付いているソースを舐めとりたい衝動を堪え、「ほっぺ」と笑って指さした。
きっと、知らないことを一つずつ時間を賭けて埋めていった先、この指は漸く彼女に届くのだろう。
だから、それまではお預けだ。
***
私が書くとエースのかっこよさが消滅してしまう。
振り向いてもらおうと頑張って、頑張りすぎて空回って夢主を巻き込んで転けるんだけど、相手に怪我させないように自分から下敷きになる。
そういうヘタレ紳士なエースが好きです。