五十音順愛の詠book

□五十音順愛の詠 『か』
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くれて、かくれて

 冬の寒さも緩み始め、日差しには春の暖かさが混じり始めて久しい。
 暖房をつけずとも過ごしやすい気候と適度に体に溜まった疲れに、異端審問局本部の廊下を歩いていた男は、ふあ、と大きな欠伸を漏らした。

 書類も提出したことだし、少しばかり出掛けるか。
 空いた時間の過ごし方を思い浮かべ上機嫌に角を曲がる。
 一歩踏み出した途端、そんな夢想も崩れ去ってしまったのだけど。


「っ!?」


 何処からともなく伸びてきた腕が、容赦なく襟首を掴んだ。すっかり油断していた体は、引かれるがままに後方へたたらを踏んだ。
 気温同様緩んでいた神経が張り詰め……かけて、すぐにまた緩んだ。
 ばたん、と扉が閉まった音を耳にした時には腰の銃に据えていた手もすっかり引っ込めていた。


「本部に乗り込んでくるとは、死にたいんですか? シスター・モニカ」
「おや、ばれてたのかい」


 存外近くから、笑みを含んだハスキーな声が聞こえた。
 首筋にかかった吐息が、いやに艶っぽくて男は頭痛を堪えるようにこめかみに指を当てた。


「ばれてた、じゃないですよ。よりによって敵陣のど真ん中で能力使うとか、頭は大丈夫ですか?」


 落ち着いて喋ろうと思うも、どうしても苛立ちが語尾に滲む。
 魔女の能力など、職員に見つかれば、異端審議にかけられる間もなく処刑されるのは目に見えている。
 相も変わらず、相手から返ってくるの艶やかな笑みの吐息とおざなりな謝罪の言葉だ。


「悪かったよ。あんたの怒った顔が見たくてね」
「前回もそう言って、まったく反省してませんね」


 招き入れられた部屋は空き部屋で、半ば物置と化している空間だ。
 しっかりと閉められた厚手のカーテンのせいで、室内の様子はおろか目前のシスターの顔も危うい。
 しかし、相手はこんな暗闇なんてことないのだろう。彼女の望みの怒った顔に、ちくちくと視線を感じる。


「目的達成したんですから、退いてくれませんか」
「つれないねぇ。それだけじゃないって分かってるくせに」


 するり、と指が胸を撫でて顎下をくすぐる。
 喉仏に落とされた濡れた感触とリップ音が、耳から脳を揺する。


「こんなことするために、わざわざ危険をおかして……」
「愛されてるって感動したかい?」
「呆れて言葉もないだけですよ。だいたい、あなたは遊んでるだけでしょう」


 命懸けのかくれんぼを。
 溜め息に混ぜて呟けば、正解だとばかりに首に腕を絡められた。

 扉一枚挟んだすぐそこの廊下を、何人もの足音と話し声が行き来している。
 相手は教理聖省の政敵ミラノ侯の直属の部下だ。
 見つかれば、どちらにも身の破滅しかない。

 暗闇に慣れたことと近くなった距離に、モニカの毒々しいまでに赤くぽってりとした唇が目に入る。
 楽しくて仕方がないとばかりに弧を描くそれに、溜め息が抑えきれない。


「諦めはついたかい?」
「そっちの諦めはとうについてますよ」
「へぇ、じゃあ何が諦めきれないんだい」
「体勢ですかね。とりあえず、ポジション変わりませんか。男としてこれはちょっと」


 言いながらも、無理だろうということを男は薄々感じていた。
 案の定、蠱惑的な笑みを浮かべたモニカは、その細く美しい指を男の口に這わせ、言葉を奪った。
 無駄話は終わり。とでも言いたげな指がひくと、グロスの光る唇が押し当てられる。


「いっ!」


 がり、と。嫌な音が頭に響いたかと思うと、鉄の味が口内に広がった。
 唇の端が熱く痛い。


「静かにしないと見つかるだろ?」
「だったら、悪戯しないでくれますか」


 指の腹で拭った血には、グロスの赤も混じっていて、やけに鮮やかだ。
 その指に舌を這わせたモニカは瞳を細め、「甘い」と一言嘯いた。
 
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