五十音順愛の詠book
□五十音順愛の詠 『え』
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えらんでもいいよ
差し出された浅黒くごつごつとした手に、女は暫し意味が分からず呆けた。
乾いた手の平を見、男の顔を見、結局何処にも意味を見いだせず首を傾げた。
「どうしたの?」
「出掛けるぞ。お前も準備しろ」
「出掛けるって、ファナちゃんの所に行くんじゃないの?」
「なんだ、分かってんじゃねぇか」
意外そうに眉を上げた手の主、レオンは再度女を促すように手を差し出す。
分かってる、と評された女の方はその言葉とは裏腹にまったく状況が分かっていなかった。
久方ぶりレオンに任務が回り、漸くそれらを終え、今日は一日オフのはずだ。
目にいれても痛くない愛娘のために、今日はゆっくり親子水入らずで過ごしてくればいいと。
ついさっき、女はそう言ったはずだった。
自分とて彼と過ごすのは久し振りで、思い切り甘えてしまいたいという、望みが心の底にはあった。
だが、それは言ってはいけないことだと蓋をしたばかりだった。
自分が寂しいならば、病院で治療に励みながら父が来るのを待つ愛娘の寂しさは、きっと胸が張り裂けんばかりだろう。
今日一日共に過ごせれば、きっと幼い心は光に満ちて、また明日からの日々も笑顔で治療に励めることはずだ。
そう思って、彼女は心の声に石を付けて沈めたのだ。
それなのに、何を考えているんだ。まったく。
眼前に晒されたままの手を、半ば睨み付けるようにして考え込む。
レオンは頑なな彼女の様子に、ふと小さな笑みを落とした。それは日頃の陽気であけっぴろげなものではなく、どこか暗さを含んだ、自嘲に近い笑みだった。
「俺にはよ、もう選択肢なんて残っちゃいねぇんだ」
「……知ってるよ」
言ってから、舌の上で同じ言葉を転がす。噛み砕いてしまうには、あまりにも苦い。
下手に歯なんて立ててしまえば、舌を突き刺して脳に駆け上がってくる苦みに、余計なものが目から零れ落ちてしまうかもしれなかった。
知ってるのだ、そんなこと。
この関係になる前に、何度も何遍も考えたのだから。彼の選択肢は、もうすべて娘のために使い切ってしまっている。彼女のために、それが行使されることなんて、これから先ありえない。
ぎゅっと、色が白くなるほど強く唇を噛む。
レオンの傍にいたい。触れていたい。そんな願いが、ばれてしまったのかと己の浅ましさが恥ずかしくなった。
俯いたつむじに、レオンの困ったように笑った吐息が触れて、ますますいたたまれなくなる。肩を下げ、縮こまり、このまま消えてしまいたかった。
「だからよ。こんなこと言うの、最高にかっこ悪ぃし、自分勝手だと思ってんだ」
差し出されていた手が、促すように上下に振られる。
言葉の紡ぎ方も、間の取り方も、ましてや強引に腕を伸ばしもしないで、こうやってただじっと待っている姿がなんともレオンらしくない。ばりばり、に乱暴に髪を掻く。
「お前が、俺を選べよ。下手に遠慮なんてして、物分かりのいい振りして、我慢なんてすんじゃねぇよ。傍にいたいって喚いて、俺の腕掴んで離すな」
髪に触れる言葉が信じられず、顔を上げる。
見上げた先のレオンの顔を目にした瞬間、それまで口の中で転がしていた言葉が、ほろほろと崩れた。想像通り喉を焼いた味が酷く苦い。そのくせ、後味はつんと鼻の奥を刺激するような甘さだ。
選べ。そう繰り返す言葉は、形だけは傲慢なくせに、ひっそりと祈られる願い事のように彼女の耳には響いた。
恐る恐る、腕を上げ、指を伸ばす。掌の厚い皮に触れると、待ちかねていたように強く握りこまれ、腕を引かれる。
そのまま、体もつられて浮き上がり、閉じ込められたのは熱い腕の中だ。
もう言葉はどろどろに溶けてしまって、欠片も残っていない。
苦いのか、甘いのか。そんなことも分からない。ただ、目の端から零れ落ちる雫はきっと、悲しさだけから生まれたものではないのだろう。
腕をまわして、たくましい首にすがりつく。
手を上げても伸ばすことはしない男が、それでも自分を選んでいいのだと選べと、許したのだ。
それならば、彼女にできることはたった一つだ。
これから先、娘のためだけに生きていくだろうレオンを、何があってもけして、離さないでいよう。