五十音順愛の詠book
□五十音順愛の詠 『あ』
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愛の詠を捧ぐ
前を歩く真っ直ぐに延びた背で、長い髪が揺れ、淡い光に輪郭が透けて溶ける。
新緑に差す太陽の光よりもなお目映い彼女の姿に、ユーグはそっと目を細めた。
パンジーや薔薇の花が露店に並び、甘やかな香りが空気を染めている。
暖かな春の日差しに石畳を蹴る横顔も柔らかで、つられて口許が緩む。
光を映してきらきらと輝いているだろう瞳を、真正面から見てみたい。
振り返って、真っ直ぐに自分の姿を映して欲しい。そんな子供のような願望が、胸に込み上げる。
名を、呼ぶ。
唇は動いた。だが、喉が空気を震わせることはなくて、秀麗な眉を苦笑に動かした。
彼女の名前を口にする時、ユーグはいつも僅かに躊躇する。
それは身体中を包むような大仰なものではない。
肺から喉をチリチリと焦がす感覚は、ささやかなのにどこか仄かに甘い。
心の中で、何度も彼女の名前をなぞり響きを確認する。
音の連なりを舌に乗せては、しばし戸惑う。
今すぐにでも形にしてしまいたいはやる気持ちと、まだ甘さを噛み締めていたいと二の足を踏む気持ちが次々と胸の中を駆け巡る。
この瞬間の気持ちの揺らぎの、何と幸せなことだろうか。
小さく彼女の名前を囁けばそれは祈りのようで、空気に大きく響かせれば耳に心地いい音楽のようで。
いつだって、万感の想いを込めてユーグは彼女を呼ぶ。
「 」
何度も何度も確めた響きを、形にする。
これは祈りだろうか、音楽だろうか。
目を丸くして振り向いた彼女の頬が、薔薇よりも赤く染まる。
ユーグを映した瞳が潤んで、更に光に輝いていた。
泣きそうな顔で微笑む彼女に、今一度ユーグはその名を囁いた。
それは祈りのようで楽のようで、何より熱っぽい想いに染まった甘い言葉だった。