五十音順愛の詠book

□五十音順愛の詠 『え』
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らんでもいいよ


 皆が好き勝手自由に過ごす甲板は、天気のいい日ともなれば、ちょっとした酒場並の五月蝿さになる。

 ましてや、新世界でも飛び抜けた船員数を誇る白ひげ海賊団ともなれば、その“ちょっとした”の規模がどれ程のものになるのか、大凡想像がつくだろう。
 笑うダミ声や口喧嘩を始める怒声、その喧嘩に油を注ぐ野次の声まで、耳を塞いでいても到底静かさとは無縁の空間だ。

 そんな賑やかさも意に介さず、白ひげ海賊団二番隊隊長エースは、大きな欠伸に目を潤ませていた。
 余りに豪快な欠伸に、顎が外れるのではと、見ている側がひやりとしてしまいそうだ。

 日の光を受けた海が涙目には一層眩しく、しょぼしょぼと戦闘時とは正反対の情けない表情で瞬きを繰り返す。
 テンガロンハットを指先で回し、このまま庇代わりに顔に乗せ、横になってしまおうかと、太陽に温められた木目を一撫で見やった。

 独特な口調と髪型の先輩隊長からは、人をまとめる立場についたからには自覚を持てと口を酸っぱくして言われ続けている。
 おまけに、上陸した島でのあれこれがバレ、脳天に鳥足での踵落としを食らったのが、ついこの間だ。大の字で寝ている所を見つかれば、今度は蹴りだけでは済まないだろう。

 しかし、眠い。猛烈に眠い。
 暖められた木目が、優しく手招いているのを余裕で幻視できる程、あちらの世界への入り口が近い。

 本人としては至極真面目だが、葛藤の一端を担う隊長殿からすれば、その葛藤自体が暢気なもんだと呆れられたことだろう。
 うんうん唸って誘惑と戦っているエースとは別に、気付けば、言い争いから始まったクルーの喧嘩は掴み合いにまで発展していた。

 周囲の反応は、実に迅速だ。青筋を浮かべた二人中心に、さっとスペースを開けると、どっかりと腰を据え、観戦としゃれこんでいる。
 野次馬の輪が二重三重とできあがり、賭け人の「のったのった!」という威勢の良い声が、マストの表面を撫でて空へと昇っていく。

 苦笑混じりに、ぼんやりと家族の馬鹿騒ぎを眺める。
 そのまま後ろにひっくり返って寝てしまいそうだったエースを、ぎりぎりでこちら側に引きとめたのは、聴覚に引っ掛かったある名前だった。

 船内へと続く扉から顔を出した人物に、喧嘩観戦の輪から誰かが声をかけたのだ。
 寝ぼけ眼だったエースは急いで顔を上げ、あんぐりと大きく口を開けることになった。勿論、欠伸のためではない。
 眠気は名前を耳にした時点で、遠い海の彼方へ飛んで行ってしまっていた。

 手で庇を作り、一度ぐるりと甲板を見回す。
 その視線は、マストの下で四角い木箱に腰かけ、驚きに酷く間抜けな顔を晒しているエースの上で止まった。

 小さく、胸元の高さに手が上がる。挨拶代わりなのだろうが、手首の固さと真面目腐った表情のおかげで、手旗信号のように見えて仕方ない。
 つられてエースまでぎこちない挨拶を返してしまった。

 白ひげ海賊団唯一の女医は、相変わらずの無表情だ。
 それでも、陽気な連中に声をかけられれば、それがどれだけしょうもない内容であっても、一つ一つ立ち止まって、頷いたり何かしら言葉を返している。

 彼女の性質をよく知っている家族達にあちこちから声を掛けられ、真っ直ぐこちらへ向かってはいたが、目の前に彼女が立ち止まるまでには少々時間がかかった。
 おかげで、どうにかエースは口を閉じるだけの落ち着きは取り戻すことができたのだ。

 白衣の裾は、いつみてもぱりりとした白さと清潔さだ。それに負けず劣らず、肌の色も白い。
 色白などという生半可な白さではなく、もはや、お日様の下にいて大丈夫なのかと心配される、病的な白さだ。

 医者なのに良いのかと、クルーなら誰もが一度は思うことをエースは胸の中で呟いた。
 ちなみに彼がこの呟きを零した回数は、既に両手両足の指では足りない。内何度かは、本人の前で声に出てしまい、それはそれは冷めた目で「ご心配ありがとうございます」と返されのだった。


「どうかしましたか、エース隊長」
「は?」
「見たこともない珍獣がいきなり目の前に降ってきて、実に親しげに肩まで組んで挨拶をしてきた。そんな顔してますが?」


 にこりともくすりとも笑わず、首を傾げる。グレーの髪が、首筋に柔らかに触れて、また元の位置に戻る。
 その様に目を奪われそうになるのを堪え、エースは言葉を探した。

 よもや、こんなお日様の活動時間帯のど真ん中に、その恩恵をさんさんと受けている場所で、最もその恵みから遠そうな人物に会うとは思っていなかったから。
 などと口に出してはいけないくらいの分別は持っている。
 一度ならまだしも、憎からず思っている相手に、あんな目で何度も見られるなんて、食堂の巨大冷凍室に防寒具なしでこもった方がまだましだ。


「あー、その……えっと、なんか用があったのか? 薬品のチェックで忙しいって聞いてたんだけど、手伝い必要?」


 散々迷った末、かなり苦しいが力技で話題を転換することに。
 乾いた笑いを浮かべるエースに、眼鏡の奥の瞳が細められる。まるで、内心を見透かしているみたいだ。


「やることあるなら、おれやるよ」
「何か、裏に別の考えがあるように聞こえたんですが」
「ええっ? そうか? そんなこと全然ないけどなー」


 数秒疑わしげな目付きのままだったが、流石に年下隊長の引きつった笑みが哀れになったのだろう。
 一つ吐息を落とし、無理やりな流れに身を任せてくれた。
 
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