五十音順愛の詠book
□五十音順愛の詠 『え』
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「整理の方は、おおよその目処がつきましたので大丈夫かと。ですが、お気持ちは嬉しいです。ありがとうございます」
ここ数日、前回上陸した島で購入した豊富な薬品類の整理に、ナースや船医達はかかりきりになっていた。
おかげで、目の前の彼女とこうして言葉を交わすのも、実に久しぶりだ。そして、眼鏡のつるで隠れた目尻に浮いた、仄かな笑みも。
日の光を一杯に吸い込んだ以上に、胸が熱くなる。
もっと近くで見たくなって、座っていた木箱から身を乗り出した。
狭まった距離に、彼女が身にまとう医務室の香りが強くなる。それと、もう一つ。
「なんか、甘い匂いする」
「鼻詰まりとは無縁の嗅覚ですね」
男所帯ではあまりない香りに、一際敏感に反応する。
すんすんと鼻を鳴らすと、冷たいとまではいかなくとも、温かいとは言い難い視線を旋毛の辺りに感じた。
まったく、あなたは。それがあまりに、隊長の自覚を持てと言っていた一番隊隊長の口調にそっくりで、エースは口を引き締めた。
自分は彼女の中で、困った弟分のクルーでしかないのだという思いが、胸を温めていた熱を急速に蝕んでいく。
「作業に目処がついたので、一息入れることになったんです。ナースの皆さんがコックの方達に頼んで、甘いものを作ってもらったみたいで。私もいただいたんですが、余っていたのか何なのか、多めに渡されましてね」
白い指先が、差し出した紙箱の蓋を開ける。
バニラビーンズと砂糖の香りが、潮の香りに負けないくらいに強くなった。
カスタードクリームがたっぷりと詰まったシュークリームに、飴色の表面から微かな温かみを感じるアップルパイ、それに、プレーンとココアの格子模様をしたクッキー数枚とイチゴのムースケーキ。
あの厳ついキッチン連中が作ったのかと思うと、何とも言えない気分になる、可愛らしい菓子の数々が箱の底に並べられている。
見目に問題はない。
しかし、多過ぎる。細さの割に人並みに食べる彼女であるが、一つ一つの菓子の大きさがそれなりなのだ。明らかに一人で消費するのは無理な総量だった。
「甘い物は平気ですか?」
「……美味ければ」
「なら、問題ないですね。この船のコックさんが作ったんですし、ナースの皆さんの保証付きです」
「おれに?」
「私だけでは、ほとんどを無駄にしてしまいますから。勿論、よろしければ、ですが」
箱の中身と彼女の顔を交互に見やる。
真っ直ぐに、自分の元に来てくれた理由に、性懲りもなくまた嬉しくなる。
ただ単に人より多く食べるから。他の連中と違って、あまり甘味に抵抗がないから。
選ばれた理由なんてそんなものだと分かっていても、彼女がその足で、船の中を自分の姿を探し歩いていたのかと思うと、エースは初めて恋した少年のように胸が騒ぐのだった。
「どれ食べたいんだ?」
渡されるがままに手にとった箱を覗き、エースが問う。
残ったものを自分が食べよう。返事を待ち、そわそわと肩を揺らしていた耳に、思いがけない返事が触れる。
「エース隊長はどれがお好きですか?」
「いや、おれのじゃなくてさ」
「私は特にないですから。どうぞ、選んでください」
不満そうにレンズの向こう側の目を見上げるが、返ってきたのは同じような内容の言葉だ。
頑固なのは知っているが、折角持ってきたのを何故という疑問が顔にそのまま出たのだろう。ほんの僅か、彼女の唇の端が綻んだように見えた。
低めのアルトの声に、強制の色はない。ただ、静かに穏やかに促すだけだ。
お好きな物を、どうぞ。笑みさえ感じられそうな柔らかな輪郭に、ふと思い出す。
これと似たような状況を、自分は昔体験した、と。
促す言葉に、幼い自分の声が重なる。彼女のような丁寧な口調とはかけ離れていたが、それでも声に滲む色は驚く程に似ていた。
今と立場は反対だった。エースが「とっとと選べ」と促す方で、促されて、わーいと馬鹿正直に両手を上げて喜んでいたのは、大事な、世界でたった一人の弟だ。