五十音順愛の詠book

□五十音順愛の詠 『い』
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にしえの恋
※男主、暗い



 男の手の中で、ジッポーの蓋がかちりかちりと音を立てている。
 口元に、煙草のシルエットは見当たらない。思考の隙間に時間を刻むかのように、狂いない感覚で金属音の拍が打たれているだけだ。

 夕暮れに赤く染まる地平線を眺めやる横顔に、パウラはそっと溜め息を噛んだ。
 開け放った扉の表面に、拳を当てる。
 こんこん。響いた音は、部屋のどの隙間に入ることもできず、浮いたまま掻き消えてしまった。


「失礼しますよ、ブラザー。何度もノックしたんですが、反応がなかったもので勝手をさせていただきました」


 入っても、構いませんか。
 つい、噛んで含めるような口調になってしまう。泰然とした態度が常の男が、不安になる程ゆっくりと表情を緩めたからかもしれない。実に拙い表情の作り方だった。一度でも彼と仕事をしたことがある人間であれば、ぎょっとしたことだろう。

 薄紫色の瞳が、険しいパウラの顔を映して、微笑んだ。
 かちん、と。一際大きく、ジッポーが鳴る。


「勿論です。どうぞ。すみません、ぼーっとしててノックに気付きませんでした」
「構いませんよ。今日は、執行日だったようですし」


 部屋の中央、ガラスのローテーブルには処理済みの判が押された書類が置かれている。
 一枚目に貼られている写真の男には、パウラも見覚えがあった。異端的な宗教儀式を行っていたとして、先月逮捕された異端者だ。

 その後の担当は、他でもない目の前の部下で、今日は刑の執行日だったと記憶している。
 儀式の内容が内容だ。刑の重さは妥当なものだったろう。
 けして厚いとは言えない紙の束から顔を上げれば、同じタイミングで男が視線を上げた。

 夜を前にしたこの時間、窓を背にした男の表情は左半分しか伺えない。赤々と照らされた顔が、パウラの言葉に一度目を瞬かせる。
 しかしそれも一瞬だ。すぐに黒い前髪の下の瞳は、弓の形に歪められる。


「意外ですね。副長がそんな感傷的な理由を持ち出すなんで」
「私自身の感傷ではありませんので」
「それは、また。部下への思いやりに溢れる上司で俺は幸せ者です」


 異端者がしていたのは、平たく言えば死者蘇生だ。
 遺体を掘り起こし、数カ月に渡って場所を変え国境を越え逃げ回っていた。その間行われたことといえば、邪教に次ぐ邪教の儀式と研究だ。
 踏み込んだ当初、屋内の異臭とおぞましさに、鍛え上げられた特警の猛者達も顔色を青くしたらしい。


「捕まるのが遅ければ、人間にも手を出していたでしょうね」
「でしょうね。正直、他の動物でできることはもう全部やってましたから。芸術的なまでにあちこちパイプで繋がった合成獣なんてものまでありましたし」
「見たんですか?」
「担当でしたから。尋問の間も、ずっと考え込んでましたよ。人体蘇生の方法を」


 捕まえてからの流れは、実にスムーズだった。
 異端者は既に正常な思考を有しておらず、自分の研究成果を熱心に担当職員に説明していたのだから。大変だったのはむしろ、その内容を事細かに聞かされる方である。
 数人の職員の間で不毛なキャッチボールが続いた末に、局内の変わり者に白羽の矢が立ったのだ。

 男は文句らしい文句一つ言わなかった。異端者が語るおぞましい犯行の一つ一つを、穏やかに相槌を打って聞いていたのだ。
 微に入り細に入りまとめられたレポートを読んだ局長が、笑顔で受領の返事を待つ男の顔を、異星人に流暢なローマ語で挨拶でもされたような目で見ていた。


「他の奴らは、頭がおかしいだの何だの言ってましたけどね。そんなの当たり前ですよ。あの男は、死人に恋焦がれてたんですから」


 盗まれた遺体は、異端者の婚約者のものだった。
 結婚を十日後に控えていたある日、婚約者は姿を消し、式前日に変わり果てた姿で路地裏に転がっていたそうだ。

 ねぐらに突入した時、異端者は白のタキシードを着ていた。そして、椅子に座っていたのは、ウェディングドレス姿の婚約者だった何かだ。
 暫く式場の前を通りたくない。そう弱々しく零していた職員がいたのも、責められない。
 
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