五十音順愛の詠book

□五十音順愛の詠 『い』
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「古今東西、死んだ人間に対する恋程、始末に負えないものはありませんよ。人の身でありながら、冥界に死んだ妻を連れ戻しに行く男の一念も、悪霊でもしゃれこうべでもどんな姿でもいいからと、この世に妻を縛り続ける男の想いも。綺麗な物語になっているだけで、どれもこれも狂気の沙汰でしかない」


 そこまで一気に喋り終えると、男は細く息を吐いた。
 風のように掴み所のない言葉で笑う姿は、今の彼には何処にもない。口から出る一つ一つの音は、固く、重く、手で触れるのも憚れるような熱さだった。
 横顔を舐める夕暮れの赤が、より一層火に、激しさをくべているかのようだ。


「随分と、実感のこもった言葉ですね」


 静かなパウラの一言に、男の顔は見えなかった。照明のつけていない室内は暗く、半歩立ち位置をずらすだけで、すぐに太陽の恩恵の枠内から外れてしまう。
 直接の返答は、なかった。男の手の中で、かちん、と金属と金属がぶつかりあっただけ。

 窓際から部屋の中央まで歩を進め、ローテーブルの上に出ていた書類を掴む。


「最後に、あいつなんて俺に聞いてきたと思います?」
「生憎、狂人の行動は私には理解不能です」


 言葉尻に被せるように、男が小さく笑った。元より、パウラの言葉は期待していなかったのだろう。
 耳に触れた微笑みの名残は、ゾッとする程熱かった。


「『私の婚約者は綺麗でしょう?』って」
「……」
「薬に漬けて大切に保管はしていたみたいですが、限界はありますから。元のブロンド美人の面影を見出すのは難しかったんですけどね」
「では、なんと答えたのですか?」
「綺麗な骨格をしているよ、と。笑ってたんで、満足のいく答えではあったみたいですけど」


 手にした紙の束を、ろくに場所も確認ずに棚へと押し込む。


「国内の都市をあちこち移動して、フランクにまで足を延ばしてましたけど、あれって元々式後に回ろうと計画していた所だったんですよ。そして、最後に二人で暮らす予定だった市内に戻ってきた、と。花嫁と二人、新婚旅行を兼ねた逃避行ってところだったんですかね」


 くしゃくしゃと、紙が歪む。今後もう見ることも叶わないだろう程に、くしゃくしゃに。
 表面に押されていた処理済みを示す印の赤を思い出す。この夕暮れのような、死人には似合いの赤だった。


「幸せだったんですかね、奴は」
「ご自分の胸に聞いてみてはいかがですか」


 棚から振り返り、パウラの正面に立った男が、笑う。
 顔など少しも見えない。
 だが、口元の上がる角度も、眉の下がり方も、薄紫の瞳がパウラの顔を過ぎて酷く遠い所を見ている様まで、何から何まで完璧に脳裏に思い描くことができた。


「副長ってお綺麗ですよね」
「骨格がですか?」
「まさか。文字通りの意味ですよ」


 人差し指の背が、顎のラインをなぞる。触れたのかはっきりと分からない程の、そっとした触れ方だった。
 窓からの光が、男の手の中で鈍く反射する。オイルの香りが、鼻先を撫でて、すぐに離れた。


「あなたは、生きてるんですから」
「褒め言葉と受け取っておきましょう」


 男の胸に、ずっと手にしていた封筒を押しつける。相手はあっさりと距離を取ると、大人しくそれを受け取った。
 パウラが何を言うためにここに来たのか。そして、その封筒の中身も何もかも知っているのだろう。


「昨日ローマ市警に、半年前、女性を暴行・殺害したと自首してきた男がいたそうです。ご丁寧に証拠まで揃えて」
「それはそれは、事件解決おめでとうございますと電報でも打っておきますか?」
「感傷的になるのは結構ですが、暴走は困ります」
「勿論、心得てますよ。次の尋問相手も、相当面倒そうですね」
「……だからあなたに回ってきたんです」
「成る程。実に分かりやすい理由です」


 早速取り掛かりますよ。
 その言葉でもって、パウラの用事は終了した。男もさっさと執務卓に書類を広げ、棚から関連資料のファイル探し始めている。
 言いたいことは何もなかった。言いたくて形にならないことなら山ほどあったが、明確に銃弾にしてこの男の笑みに叩きつけるだけの言葉を、パウラは一つも持っていなかった。


「失礼させていただきます」
「お疲れ様です。色々と」


 かちん、とジッポーが鳴る。
 古の、死人への恋に身を浸す男は、実に幸せそうに微笑んでいた。
 
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