五十音順愛の詠book

□五十音順愛の詠 『あ』
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の詠を捧ぐ


 いつもの自身の脈拍が通常の歩行速度だとするなら、この人が来ている時はずっと駆け足状態と言っていい。
 あまり褒められた運動神経の持ち主でもなければ、人よりも弱い体なのに、このままではそのうち心臓がどうにかなって倒れてしまいそうだ。

 とっとっと。
 胸の内側で全身に血液を盛んに送られ、春島という過ごしやすい季節にも関わらず頬がじわりじわりと熱を蓄えていく。
 気付かれていないだろうか。柱にかかった時計を確認するフリをして、ちらりとカウンターに目をやった。

 今頃の時刻は、店にあまり人が来ない。
 ランチには遅すぎ、小休憩には早すぎる中途半端な時刻なのだ。現に、控え目な音楽が流れる店内に、他に客の姿はない。

 元々表通りから一本路地を入った場所にある、小さな店だ。客数だって高が知れているし、大体が時間帯の決まった常連客である。
 気紛れな新規がいなければ、以前までは店主である彼女もぼんやりと時間をもてあますのが常だった。

 その常が、ここの所過去のものになってしまっている。原因は言わずもがなだ。
 気まぐれは気まぐれだが、ちょっとした縁から常連客へとなった男は、他と違い、この空き時間にふらりと訪れることがほとんどなのだ。

 島の住人ではない彼は、白のスーツを着こなし、額にアイマスクという出で立ちに加え、誰よりも長身というとても目立つ要素を沢山抱えている。
 それなのに、こうしてスツールに腰をかけてしまうと、すんなりと店内の空気に混り、島の常連客との違和感もなくなるのだから不思議だった。

 ステンドグラスの傘を持ったランプの前を特等席にして、コーヒーを飲む姿が当たり前のこととなったのは、いつの頃からだったろう。
 これまで周りにいなかった男の性格に、最初は肩から力が抜けず、店のドアベルが鳴る度に戸惑っていたが、今ではすっかり、好きなコーヒーの濃さも豆の種類も覚えてしまっている。

 緊張はするが、それは以前までの背中が冷たくなるような嫌な緊張ではない。じんわりと指先まで熱くなっていくような、正反対のものだ。
 自身の心臓の心配をするようになっている原因そのものだが、この緊張を嫌いになりきれずにいる。むしろ、できるだけ長く感じていたい。

 泡を纏った皿を一枚一枚、水にくぐらせる。特にこれといった会話はないが、マグを片手にした男の指先はとても穏やかだった。
 ちらりと手元だけを盗み見て、すぐに泡と水が渦を巻く流れに目を戻す。
 長く節の目だった手は、泡にまみれた手とは何もかもが違う。一つ、これまでより早く鼓動が足踏みをする。

 ちょっと腰を上げれば、カウンター内の彼女にその指先は簡単に届く。届くには届くが、彼が今までそういったことをしたことはなかった。
 こんな想像をするだなんて、まるで、そうされるのを待っているみたいだ。自身の思考に、また心臓の足取りが早まった。
 動いてもいないのに、全力疾走しているみたいだ。


「どうかしたの?」


 機能を果たさない喉が、何も入っていない空気の固まりを一拍分吐いた。
 慌てて顔を上げれば、それまで肘をついて窓の外を眺めていた男――クザンが、正面からこちら覗き込んでいる。

 すっかり慣れた声のない生活も、クザンと出会ってからはもどかしく感じることが増えた。今も、首を傾げることでしか反応を返せない我が身が恨めしい。
 頬杖をついてこちらの動作をじっくりと眺めていたクザンは、空いた片手で自分と彼女の顔を交互に指差した。


「頬。赤くなってるけど」


 何処となく意地悪な色を含んで微笑まれ、体の内側をじわじわと炙っていた炎の火力が一気に跳ね上がった。まともな動作を返すこともできず、さっと視線を顔ごとシンクへと反らしてしまう。

 あまりに不自然で、失礼な反応だとは百も二百も分かっていたが、一気に走るスピードを増した心臓に、とてもじゃないが顔を上げていられない。
 静かな店内に聞こえてしまいそうな程、鼓動が速く大きい。少しでも落ち着こうと深呼吸を繰り返すが、吸って吐くという至極単純な動作に間誤付いてしまう。

 どうにかしようと、右手を頬に押し付けた。熱い頬に指の形を借りて染み込んでくる冷たさに、ほっと息を吐く。

 が、押し付けた手は洗い物の名残でしとどに濡れていた。当然、冷たさと水滴はセットでやってくる。
 爪の先を薄く包んでいた水が、頬へと居場所を移転し、輪郭に沿って落ちていく間に雫として形を成していく。

 頬から顎先まで伝い落ちる感触に、慌てて反対の手で拭ったが、こちらもこちらで濡れているのだから意味がない。むしろ、濡れが二乗した。


「あらら、大変じゃない」
「っ!」


 手近に拭く物を探して視線をあちこちへさ迷わせていたところに、するりと自分とは別の体温が触れる。濡れた個所を丁寧に拭うのは、先程不埒な想像をしてしまった固い指だ。
 顎から頬まですっぽりと覆って、それでもまだ余りある大きさの手は、体温が低くひやりとしていた。しかしそれも、瞬間的に限界を突破した彼女の体温の前では焼け石に水でしかない。

 心臓が破裂して、ここで死んでしまう。くらくらする視界に、冗談でもなくそんな危惧を抱いた。
 一つ一つ胸の内で鼓動が刻まれる度、頬に触れる手にもそれが伝わるのが自分でも分かった。体すべてが心臓になってしまって、クザンの掌にすっぽりと収まってでもいるかのようだ。

 恥ずかしさに耐えきれず、ぎゅっと目を瞑る。それが男にとっては逆に請われているように見えるということを、残念ながら彼女は知らない。
 苦笑を浮かべたクザンは、彼女が知らないことを知っている。だからこその苦笑なのだ。
 
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