五十音順愛の詠book

□五十音順愛の詠 『あ』
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 穏やかな笑みに包まれた自身の名に促され、そろりそろりと瞼を上げる。その間にも、丹念に頬の水滴を拭われていたが、もはや羞恥が頂点を突破してしまっていたのでどうにか目を回さずに済んだ。


「手、貸してごらん」


 無理に握るでも、急かすでもなく、胸元でさ迷っている手を指差す。
 とって食いやしないよ。まるで怒られることを恐れる子供を宥める口ぶりに、「当たり前です!」と口の動きだけで抗議した。
 声に少しも昇華されない言葉を、だけれどクザンは余さず汲み取ってくれる。そうしてやはり、苦笑と呼ぶのも気が引けるほどに穏やかに笑うのだ。

 ぎこちなく差しだした指先は、今だに濡れている。しかしそんな瑣末なことを気にかける素振りなど欠片もなく、クザンは小さな手を掬いあげた。
 滑らかさとは無縁の厚い皮膚と、ごつごつと骨ばった感触に、いやがおうにも自分との違いを感じてしまう。


「歳をとるとどうもね、面の皮が厚くなっちゃうのよ。おかげで、表面だけ見りゃ、なんてことない涼しい顔しているようにしか見えない。まあ、うろたえてかっこ悪いとこ見せたくなんてないんだけどさ」


 スツールから立ち上がると、元来の長身がより分かる。少し上半身を傾げれば、二人の間にあるカウンターなどないもののように、目線が近くなった。

 指が導かれた先は、クザンの心臓の上だ。
 白い上着に水が染み込んでいく様に、慌てて手首に力を入れようとしたが、冷えた末端感覚を打った鼓動にそれどころではなくなってしまった。

 自身の心臓は今もまだ、全力疾走中だ。しかし、それと今指先に伝わるもののスピードは似ているが同じではない。
 どちらがより早いかなど分からなかったが、見目にも涼しい色合いのスーツから伝わるにはどうにも場違いな程に熱を訴えている。

 目を丸くして見上げれば、クザンは軽く肩を竦めた。こちらの質問を誤魔化すためではなく、ただ単に気恥ずかしさをやり過ごすための動作だ。


「それで? なんであんなに赤くなってたのか、理由を聞いても?」


 意地の悪い声で、両眼が眇められる。
 折角忘れていた熱がぶり返してしまい、彼女はきろりとクザンを睨んだ。だがそれはどちらかと言えば、溢れそうになる涙を抑えるために眉間に力を込めたものであって、視線の強さはむしろ弱々しいものであった。

 聞かないでくださいよ、そんなこと。
 唇を漸く動かして、そう文句を形にするのが精一杯だ。爪先立ちになって、クザンの胸元に顔を寄せる。

 こういった時に、特に何を言うでもなくこちらの動きに合わせて、更に腰を折って、寄せやすいよう体勢を作ってくれる。
 クザンという人間は、これまで彼女が出会ったどの男性よりもずるくて優しいのだ。

 厚い胸板に寄せた耳に、皮膚の下からどくどくと脈打つ心臓の動きが聞こえてくる。それはやはり、お世辞にも余裕のあるという速さとは言えなかった。
 泰然とスツールに座るクザンの内側に、これ程の熱が存在している。そして、触れていいいのだと許されている。
 恥ずかしいのか嬉しいのか、自分でも何が何やら分からなくなって小さく鼻をすすった。

 握った掌に、そっと指を滑らせる。
 短い文章を書き終えるまで、驚く程に長い時間の流れを感じてしまった。一秒が十倍にも百倍にも引き伸ばされてしまったかのようだ。


「おれもだよ」


 答えを聞いたクザンが、力強い腕で彼女を抱きしめた。
 触れあった肌から、お互いの熱と鼓動が滲む。
 それは「この人が好きだ」と高らかに歌っていたのだった。
 
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