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□塾講パロ(トレスver)
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「ねぇ、トレス先生。絶対に受かる、って嘘でもいいから言ってくれませんか」


 ホワイトボードに書かれた数式や図形に、赤のホワイトマーカーで解説を入れていた手がぴたりと止まる。折角書いていたタンジェントのnが歪んでしまった。
 いつも非の打ち所がないくらい綺麗な字なのに。自分でその原因を招いたくせに、私は勿体ないと歪んでしまったnを指先で擦った。

さあ、どうぞ。おどけたように促せば、先生はこちらをちらりと見ただけでまたボードに視線を戻した。
 そして改めて続きの綴りと数字を書き足しながら、実に短くきっぱりと「断る」と言い切った。
その言い方ったら、いっそ清々しいくらいの調子で、駄目元で頼んだこちらとしても、軽く凹んでしまう。


「なんでですか。一回でいいんですよ、一回! 塾の講師として受け持ちの生徒の不安は拭っておかないといけないんじゃないですか?」
「志望校のレベルは、余裕のあるものじゃない。絶対的な確信もない状態で、口にしていい言葉じゃない」
「だから嘘でも良いって言ってるじゃないですか!」
「嘘ならなおのこと、口にしていい言葉じゃないはずだ」


 その横顔には、苛立ちだとか困ったような色はこれっぽっちもない。淡々と、それこそ数式をまとめる時と同じような作業的な感覚で口を開いているのかもしれなかった。
 私はグッとシャーペンを握る指に力を入れて、書かれたばかりの解説を睨み付けた。
 怒りではなく悔しさからだ。それも、目の前の先生に対してではない。他ならない自分の弱さに、だ。
 先生の言っていることは最もだ。最もだと分かりきっているのに、それでもお願いなどと口する自分が苛立たしかったし、悔しかった。

 前期の試験までもう一ヶ月を切ってしまったのだ。学校の先生は、きっとどうにかなると言っていたけれど、焦りばかりが雪みたいにどんどん降り積もっていく。
 以前に積もった不安が消えないうちに、次から次へと積もってしまって、焦燥が喉をかきむしる。
 八つ当たりだと分かっていたけれど、意地悪と呟いてしまう。駄目元で頼んではいたけれど、それでもほんの少し期待していたのに。

 喉が熱い。悔しいからなのか、焦燥からなのか、よく分からない。もう何も分からなくなってしまいそうだ。
 先生は、静かにマーカーをボードの隅に置くと小さくため息をついた。それが日頃滅多に表情を変えない彼の、数少ない感情表現のバリエーションだと、この三年ですっかり学んでいた。


「あ、呆れないでくださいよ」
「誰でもこの時期は不安にかられる。何もお前だけじゃない」


 フォローなのか、それとも甘えるなと言外に注意しているのか。
 意図を図りかねて黙っていると、結論を出す前に先生は椅子ごとこちらに向き直った。短く切り揃えた髪に蛍光灯の明かりが当たって、沈む直前の夕日みたいだ。
 先生は短く、私の名前を呼んだ。きっちりと正した姿勢は、小柄なわりに威圧感を伴う。
 それでも問題の解説をする時とは違う、名前を呼ぶ時だけに微かにそこに含まれる柔らかさを知ってからは、この人のことを怖いと思ったことはなかった。


「確証もない言葉を容易く口にするのは、好まない」
「知ってます。トレス先生はそんなんだから、女の子達に怖がられるんですよ」
「理解できない」
「女の子は、優しい言葉が好きなんですよ」


 言えば、先生はまた分からないとでも言うように微妙に首を傾げた。この人の頭の中は数式でできてるんじゃないかと、時々思ってしまう。


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