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□ハート釦
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ハート釦
ことり、と小さな音を響かせて出夢はその五百円玉ほどの大きさの釦を箪笥の上に置いた。こびりついた血をごしごしと擦って落とせるか試してみる。既に凝血したそれは、赤黒く付着して、とれそうにもなかった。
まあったく、僕ってばなにしてんの。
と、呆れたような言葉が口端から漏れた。継いで溜息を付きそうになって、彼は慌ててぐっと奥歯を噛み締めた。
こんなことで溜息なんてついてたまるか。こんな、殺し屋とは遠く離れた感情なんかで。
「訣別しちゃったなー」
「兄貴」
「あん?なんだよ理澄」
「うん。あのね、私が言えた事じゃないけど、さ。ホントにあれで、良かったの?」
そんな兄の様子を見ていた理澄が心配そうにそう問う。出夢はじっと理澄の目を見つめる。
奥底の見えない瞳。奥底のない瞳。
にこりと出夢は笑うと勢いよく、いーんだよ、と言い切った。
「そっか」
理澄の視線が、箪笥の上の、兄が別れ際に人識の学ランから奪い取った第二ボタンに向く。ウソツキ、と理澄の口がそう形作ったのを、出夢は見なかった振りをした。
人識と別れてから、出夢は人に頼る、という弱さを払拭した。だから、今の理澄に言うべき事は何もない。幾ら兄が何かを自分に黙っていたとしても。踏み込める領域ではなかった。
「殺されたら人って死ぬんだよなぁ」
「はあ?え、何言っちゃってんのお前。んな身体に五臓六腑に染み渡っちゃってる事実今更想起し直すとか死ぬのか殺されるのか」
「いやいやこりゃあだからこその実感だぜ人識。殺し慣れちゃったからこそ考え直してんのさ。人っておもしれーよな。殺したら、死ぬんだ」
「まあ、そーだけどよ」
ごろん、と人識は古臭いマットの上に転がった。その上に出夢が躊躇いなく乗り掛かる。おい、と人識が眉をしかめるのと出夢が唇を塞ぎにかかるのとでは、恐らく後者の方が早かった。
なんだかなぁ、と思いつつ人識は出夢の後頭部に手を回して引き寄せる。やられっぱなしは性に合わない。
しばらく狭く黴臭い体育館倉庫に小さな水音が続く。一分もしていたろうか。始まりが唐突なら終わりも唐突だった。
「……出夢、お前さぁ」
「人識」
どーしたよ、と訊こうとした人識の言葉を遮り、出夢はにこりと笑った。
「卒業するとき、僕に心臓くれよ」
「…………は?」
「あ、ちがうちがう。んーと、ほらなんだっけ。女が卒業式に欲しがる心臓代わりの」
「えーと、そりゃ、学ランの第二ボタンのことか」
「あーそれそれ。寄越せ」
「そりゃ構わねえけど。意外だな」
「え、なんで。僕ってば常日頃人識の心臓を狙っちゃってんだから至極真っ当な理由で欲しがってるでしょ」
「第二ボタンって普通、好きな奴やらお世話になった先輩やらのを欲しがるものであってだな」
「じゃあそれでいいや」
「お前な」
頭痛い、と人識。そりゃ重畳、と出夢。
遠くで終業のベルが鳴るのを聴いて、出夢は身体を起こした。
「人識愛してるぜ」
「おーそりゃどうも。俺も愛してんよ」
自らが壊した絆の中で、忘れることが出来ずに未練のように手にしてきたのが、その第二ボタンだった。いや、それさえどうだろうな。と出夢はゆるりと首を振る。
あの日、血溜まりになった教室の中で、出夢は解放感と共に確かに、たった一滴の罪悪感を持っていた。
罪悪感。
誰への。
理澄。
人識。
……人識。
「なぁ理澄」
「なに兄貴」
「その釦、お前があずかってて」
自分で持ってると、ロクなことにならない気がするから。でも、捨てるのもまだできないし。
と、出夢は笑って、血の付いた釦を――あの日、教室の中に人識を転がしてから、学ランからもぎ取ってきたその釦を、理澄に手渡した。
理澄は笑って了承した。これでいいのだと、そう思った。
「それね、僕の心臓だから」