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□ウンディーネより愛を込めて
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ウンディーネより愛を込めて
淡い水底だ。透明で澄んでいて、どこかほの暗い。塩素の香りがまだやぼったくて。
女神さまが住む水の中にはきっとまだ遠く及ばなかった。
『もがな、起きて』
ひどく静かで落ち着く声だ。ゆらゆらと揺れる水面に手を伸ばすと、温かな体温が私の手を包み込んだ。
そのままゆっくりと引き上げられて私の体は重力を思い出す。ずん、と重くなった体は、今度こそ水の中に溶けることは不可能だった。
「……寝てた?」
『ぐっすり』
「ごめんね」
『うん』
プールサイドに腰を下ろす。
その隣で、もうそれは癖だね、と彼は微笑んだ。そうかも、と私も頷く。
水の中は心地いい。地上で不器用に息を吸って歩くよりもよっぽどわたしの性に合っている気がする。
鍛え上げた心肺機能は水の中で生存することを少しだけ許してくれる。いつか顔を、体を、上げねばならない。そう分かっていても、空気が私に存在する間、水は私の聖域だ。
(無呼吸の間、私は一番生きている)
『もがなは本当に人魚姫だ』
「……それじゃ足りない、なぁ」
女神さまになりたい、というと彼はくすくすと笑う。塩素の香りの水辺に反響して、うわんうわんと声は私に流れ込んだ。
『もがなはとっくに、女神さまだよ』
と、彼は両足を水の中に突っ込む。ぱしゃりぱしゃり。蹴り上げた水面で水滴が輝いた。
「禊ちゃんは、私に甘いね」
『うん、べたべたに甘やかしてやりたいぜ、いつだって』
「もう」
だってもがなは自分にいつだって厳しいから。僕が甘やかしてやらないと、いったい誰がもがなを休ませてあげられるんだい?
彼はそう言って私の脚にぱしゃり、と水をかけた。そこから先が、魚の尾になっていく気がする。
呼吸がしやすい。私はきっと命の半分を水に埋めているのだ。
(『いとしい』って、きっとこういうこと)
心から沸き上がってくるのは、そんな真っ直ぐでくもりのない気持ちだった。きょとんと首を傾げる彼がとても眩しい。
私がつらいとき、誰かに傍にいて欲しいと願ったとき、私の隣にいたのはいつだって彼だった。
「ねえ聞いて」
息を吸い込む。ぐうっと私の体の中に巡り、蓄積される、空気中のたくさんの素敵なもの。
酸素。彼の呼吸。体温。塩素を帯びた私の聖域。
「私、禊ちゃんが大好きだよ」
そういうとお腹の中がきゅうっと熱を帯びた。命がゆっくりと育まれていくその温度を感じる。
彼は目をぱちくりとさせると、ゆったりと笑んで、自分の着ていた上着を私に掛けた。
『あんまり体を冷やしちゃだめだぜ、妊婦さん』
今日はもう終わり、と脚を水から引き抜き、彼は私に手を差し出した。その手を取って立ち上がる。ぬるいタイルを踏みしめたのは、尾でもひれでもない、しっかりとした二本の脚だった。
「名前を、考えてたの」
「禊ちゃんとの子供なら、体いっぱいにたくさんの愛を受けて育って欲しいから」
「どんな時でも笑って頑張れる強い子になって欲しいから」
ぺたぺたぺた。
水辺から遠ざかるにつれて、足下のタイルは乾いて温度がなくなってく。彼と繋いだ手だけがずっと、変わらず温かなままだった。
「私にとってこの子は最上の子になるよ。だから」
『もがみ』
「え」
『最上ならそういう名前を付けないとさ。だから、もがみ』
そうすると漢字は最上って書くでしょ?と彼。
き、と高い音を立てて更衣室の扉を開く。そのまま彼はバスタオルを私に投げて先に外に出た。いそいそと着替えて、彼の元へと急ぐ。
彼は私の姿を認めるなり、ふんわりと微笑んだ。
「禊ちゃん」
『ん?』
「呼んだだけー」
『そう』
「……禊ちゃん」
『何?』
「あのね、幸せになりたい。みんなで、一緒に」
目を閉じて思い浮かぶのはもうずいぶん長いことあってない高校以来の友人達だ。
世間一般箱庭学園共通で、音信不通生死不明の彼は、週に一、二度私のところにやってきては目一杯の愛を私に与えて、またどこかにいなくなる。
つなぎ止めておけない。つかみ所がない。風のよう。
いつかこの手から離れていってしまうのではないか。
それも前触れなく、何の痕跡もなく。
はじめからそんな存在など無かったものであるかのように。
『じゃあ』
どきどきと、つきつきが、いっぺんにやってきた。緊張と胸の痛みと、彼はどっちを汲んでくれるのだろう。
彼は私の荷物を横からさらって、するりと私の頬に手を滑らせた。
『結婚しようか、もがな』
「……え」
『僕は甲斐性無しだから、もがなを不安がらせるかもしれなくて。過負荷だから幸せより不幸を引きつける。だから、恐ろしくてもがなの傍に毎日なんていられなかった。でも』
彼は鼻の頭をかいてバツが悪そうにあらぬ方向に視線をそむけ、意を決したように私に向き直った。
「出来ることなら僕はもがなと幸せになりたいし、もがなを幸せにしたいよ。だから、結婚しよう、もがな」
(……女神さま)
くもりない真っ直ぐな言葉は愛情に満ちていて、地上では難しい呼吸はとても簡単に感じた。
そう。私の呼吸は愛しいものだけできっと出来上がっていたから。彼の言葉で私の呼吸はまた愛おしいものを得た。
「よろこんで」
水の中で微睡むのは母の体内にいるかのようだから。
じゃあ私の子宮に静かに根付く愛おしい命は今水の中にたゆたって微睡んでいるのだろうか。
ひとしずく、ぼろりと目から涙があふれた。愛を煮詰めたようだと思った。
(水の底にいなくても私は幸せになれるの)
私の頬に触れた手を握って微笑む。
彼は静かにうなづいた。
▼あぶくにさよなら