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□恋猫の置き土産
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恋猫の置き土産
真っ黒な毛並みの、しなやかな体を持った黒猫が居ついた。さらりと流れる艶めく毛を、ぼくの姿を見かけるたびに惜しげなく押し付けてくる、なんだかうっかりすると可愛らしく見えてくる猫だった。
頭の先から尻尾まで、闇に溶けるような黒の癖に、右頬だけが染め抜いたように真っ白で、そのアンバランスさもぼくの目を引いた。
(ああ、僕の鏡に似てるんだ)
そう思って以降、ぼくはその猫をなんとなく、ゼロ、と呼ぶようになった。
「よっす欠陥製品ひさしぶり。何日ぶりだ? なっつかしーな」
と、ぼくの鏡こと、零崎人識が訪れてきたのは、ゼロを世話し始めて半年もたったころだった。
マンションのエントランスホールの隅にぱかりと猫缶を開けたぼくに、零崎は怪訝な顔で問いかけた。
「欠陥製品猫なんて飼ってんの?」
「飼ってはいないよ。ここに居ついたから、世話してるだけ。定住もしてないみたいだし、飼い猫未満野良猫以上、って感じ?」
とぼくは続いて小さなプラスチックの深皿に水を注ぐ。
いつもならこのタイミングでやってくるゼロも、他人の気配を感じたのか、今日ばかりは現れなかった。
「ってゆーか零崎、何日ぶりって言うか何年振りなんだけど。骨董アパート、骨董マンションになったけど」
「おう、あのてんでぼろっぼろだったアパートがこんな小奇麗なところになったとは見違えた」
「まあ積もる話もあるだろうけど。ここで立ち話もなんだろう、上がりなよ。紅茶くらいは出してやる」
「水道水から進化か」
「まあね。人間日々進化だよ、人間失格」
「それをお前が言うかよ、欠陥製品」
骨董マンションの五階にあるぼくの部屋は、仕事場でもある。請負人を開業したときに哀川さんから貰ったテーブルが、リビングにどぉんと存在感を醸していた。
その前に置かれた、やはり大きなソファにぐでりと身を投げて、零崎は、ふうん? と中を見渡した。
「前に来たのって、新築でまだなぁんも家具揃ってなかった時だっけ? 何年前だ?」
「えーと、真心がこなっごなに粉砕したのが八年前で、もっかい立て直したのが……まあ七年くらいじゃないか?」
「まあそんだけ経てば生活臭もするわな、納得。仕事、上手くいってるらしいじゃん」
「おかげさまでね。いろいろ至らないところは多いんだけど」
零崎は、ずっと紅茶をすすると、ところで、と話を切り替えた。
「猫」
「ん?」
「お前が世話してる猫、みてみたい」
「どうかな、警戒心強めみたいだから。ぼくも今日はまだ姿を見ていないんだ」
「名前は?」
「ゼロ」
「……うん?」
「ゼロ。きみから取って」
零崎はきっちり三拍ほど動きを止めて、それからバッとソファから身を起こした。
「……お前、何年たってもその微妙にアウトライン踏んでる感じの残念な変態加減、衰えないのな」
「え、今のなんかアウトだった?」
「アウトだろ。普通なんでもねーやつの名前勝手に猫につけるかよ」
「ごめんぼくにとっちゃきみは、なんでもねーというより、なんにもなれない、だ」
ぼくの鏡の向こう側。
平行線。
プラスマイナス、ゼロ。
「あーでもそうとも違うか。なんせぼくの恋人みたいなもんだし」
八年前、七年前。
幾度か唇を重ねたことがあった。
あれは一体なんだったのか。ぼくの中でも、おそらく零崎の中でも、未だに処理のついてない決済待ちの事柄で。
つらつらと考えてからふと視線をあげると、零崎はぽかんとした様子で口を開けていた。
「あー、えっと、欠陥製品」
「うん」
「俺ら、付き合ってたの?」
「どうだろう」
なんなら試してみる? なんて嘯いて白い肌に手を伸ばした。柔らかな弾力。滑らかな質感。
深い紅の瞳に引き込まれて、キスを一つ。
「……零崎は」
「ん」
「しばらくこっちいるの?」
頬から手を離してそう問うと、零崎はんん、と首を傾げた。
「別に、決めてねぇな」
「今日は」
「真っ当にホテル借りてるからそっちに戻る」
「へえ」
人間らしくなったね。
もう鬼は廃業して久しいからな。
なんだかちょっと寂しいや。
あーそりゃどうも、せいせいする。
「んじゃお暇すんぜ」
「はやいね」
「明日また来るよ。猫、見にな」
「理由なんかつけなくてもいいのに」
「うっせ殺す」
その日ゼロは結局やってこなくて、翌日水を取り替えにホールにでると、猫缶の中身がほんの少しだけ減っていたのを確認した。
ここに来ていてぼくの前に姿を見せないだなんて、珍しいこともあるもんだ、とぼくは思った。
「猫は」
「見てない」
「えー」
「そういうときだってあるだろ。餌は減ってる」
「んあーじゃあまた明日来る」
このやりとりを一週間繰り返した頃、零崎は業を煮やしてぼくの家に張り込むと宣言した。
なんだかゼロの代わりに零崎がうちに居着いてしまったかのようだと思った。
ゼロは相変わらず姿を見せない。
が、零崎がうちに来た翌日、ホールに置いておいた猫缶と、水を入れていた深皿が中身をこぼしつつ持ち去られていた。
「ああそっか」
「うん?」
「ゼロはきみがぼくのところにくるまで、代用のつもりでいてくれたんだ」
と、ぼくはつぶやいた。零崎は笑わなかった。
傑作だ、と小さく口ごもるようにいって、床にこぼれた水を指先でなぞった。
「ちげーよいーたん」
「ん」
「その猫はきっと、大切な相手を見つけたからいなくなったんだよ」
だって今は恋猫の季節だぜ、と今度は笑いながら零崎。
それは戯言だね素晴らしい、とつられて苦笑するぼく。
「託されちゃあしょうがねえし、お前んとこいるよ、いーたん」
とそっぽを向いたまま零崎は言った。
春は爛漫で穏やかだ。
外では恋猫たちの鳴き声が長閑な昼下がりに響いていた。
▼むかえにきたよ