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□水に溶けた王子様
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水に溶けた王子様
ぱしゃん、と水面が小さく音を立てて揺れた。
外はもう暗く、申し訳程度についた室内プールの明かりは水底には届きそうもない。
海の底、みたいだ。
プールに潜ったまま膝を抱えて、彼女はそんな事を思った。
驚異的な肺活量を持つ彼女にとって、水中は母の胎内のように心地好い空間だった。無論、胎の記憶など、持ち合わせていなかったが。
静かに音のない世界に凭れる。うつらうつらと微睡む。
自分が人間であることが、彼女には不思議だった。
だって、私の身体はこんなにも水に渇いている、のに。
「『喜界島さん』『いる?』」
不意に水面が空気の振動に会わせて微かに震えた。ざばり、と水上に顔を出す。
ひらひらと手を振りながら近付いてきた彼に、彼女は小さく息を漏らした。
「ぁ……」
「『やっぱりいた』『大会近いって聞いたから』『もしかしてと思って』
『もう暗いし』『帰ろうぜ、喜界島さん』」
「……禊ちゃん、まだ帰ってなかったんだね」
「『善吉ちゃんたちはもう帰ったよ』『だからこれは』『もし良かったら』『喜界島さんと一緒に帰りたいなーって』」
彼はプールサイドに裸足で踏み出した。とびきりの笑顔と共に、言葉は楽しそうに紡がれる。
「『下心?』」
「……下心って、」
「『うそっ、うそぉー。オールフィクション!!だぜ!!』『プール』『見てみたかっただけだよ』」
彼は学ランを脱いで膝に乗せ、スラックスをなるたけたくしあげると、サイドに腰を下ろして足だけを水中にいれた。
僅かにばたつかせた足は波紋を作って、彼女の元へと届く。
愛おしげに水面を撫でて、彼女は彼に視線を移した。彼はなんだか神妙な顔で水に手を触れていた。
「『いいな、喜界島さんは』」
「どうして?」
「『陸でも海でも』『明るくても暗くても』『いてもいなくても』『あっても無くても』『でも』
『何処にいても』『生きていけそう、だから』『かな』」
彼は彼女を見つめて。
だが、瞳の奥に映るのは焦燥にも似た感情だった。
「『僕は』『どこだろうと』」
「『生きていることが』『虚構』『みたいだから』」
泡のようだ、と思って彼女は彼に手を伸ばす。
触れる術もなく消えてしまいそうだ、と取った手のひらは冷たかった。
ばしゃん……!
そう感じると同時に、水の中を求める自分が、生き場所を見つけられない彼が、寂しく、て。
水中に彼を引き入れる。
「『……』『びしょ濡れだ』」
「ごっ、ごめんね禊ちゃんっ」
「『いや、別に』『気にしてないけど』『どうしたの?』」
「…………。禊ちゃんが、水に溶けちゃえばいいと思ったの」
彼女の返答に彼は僅かに首を傾げる。
彼女は水を掬い、指の隙間から零れていく様を眺め、ゆっくりと口を開いた。
「そうしたら、私の世界に禊ちゃんの世界が重なるかなぁって」
変なこと言ったよね、ごめん、ちょっと泳ぐね。
彼女は焦ったように言って、空気を胸一杯吸い込む。潜ろうとした瞬間、彼が彼女の腕を掴んだ。
「禊ちゃん?」
「『……』『君の世界の中に溶けたいけど』『僕は水の中で生きられない』『から』」
彼は彼女の瞳を覗き込んで言う。
「君の酸素を、僕に頂戴?」
返答を紡ぐ前に塞がれた唇は、塩素に濡れていて酷く苦い味がした。
肺に取り込んだ空気を根こそぎ奪いにくるような、切迫したキスだった。
「禊、ちゃん……っ?」
「『……』『僕は弱いから』『喜界島さんの優しさに漬け込んじゃうんだよ』」
苦笑いを浮かべて、彼は既に手遅れな程にびしょ濡れになったカッターシャツを脱いでプールサイドに放り投げた。
上半身だけは少し軽くなって、彼は水面に浮かぼうと試みる。
仰向けに寝転んだ身体は水中にずぶずぶと沈んだ。
「『ああ、ちくしょう』『やっぱり僕は駄目だ』『また、』『勝てなかった』」
「……禊ちゃん、」
「『帰ろっか』」
「そう、だね」
曖昧に返事をした彼女は、プールサイドに向かう彼を黙って見守って。
彼が手すりに手を掛けたところで口を開いた。言葉は堰を切ったように飛び出した。
「禊ちゃんはずるいよ。いつも自分の中で自己完結しちゃって!! 弱音はぽんぽん吐く癖に本音はいつだって言わないじゃない!!
括弧つけなんてなんにもならない戯言なんだから!! 禊ちゃんは格好付けたつもりだって、そんなの私からしたらただの強がりだもん!!
今だって、私にしたことに何の弁解も言い訳もないし。そのくせまた勝手に負けてるし。
ねぇ、一体なんなのよぉ……!!」
「『……喜界島さん』」
もう自分でも何が言いたいのか彼女には分からなかった。頭の中はこんがらがって、口の中はからからだった。
彼は手すりを掴んでいた手を離し、幾ばくか逡巡し、迷った末にゆっくりと彼女の元へと近付いた。
「『僕は』」
そっと彼女の肩に触れると、その肩は小さく震えている。
泣かせてしまったのかと覗き込んだ瞳は泣きこそしないにせよ、僅かに潤んでいだ。
「『僕は』『喜界島さんのことが』 好き 、『です』」
ごめんね、と続いた声は彼女が遮った。
肩に置かれた手を取って、彼女は幸せそうに笑った。
「私も、好きだよ」
「『……本当に?』」
「うん」
「『じゃあ』『僕の世界に』『生きる意味になってくれる?』」
「なるよ。だから、私の世界と一つに溶けて下さい」
「『勿論』」
気持ちを確かめるようにもう一度重ねた唇は、僅かに体温を反映して温かかった。
水の中で静かに積もるのは、一体なんだっただろう。
あなたが、そばにいてくれたら。
わたしは、それだけでひととしていきていけるの。
甘い甘い気持ちがぐるぐる回って。
「『じゃあ』『帰ろうぜ』」
水中で繋いだ手は、揺らぐことなく固く結ばれた。
▼あなたとわたしがいきるほうほう