日和

□陸で溺れる魚のうた
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曽良は、それをぼんやり眺めていた。
(あぁ、同じだ)
魚だった。昔鮒釣をして、びくに入れておいた鮒に似ていた。
黒っぽいそれは濡れて光る。
ぱくぱくと口とエラが開閉し、呼吸をしようと必死になっている。
思わず口許が緩みそうになったのを飲み込み、口を開く。
「芭蕉さん」
返事はない。当然か。
「苦しいですか?」
膝を抱えてまじまじと覗き込む。頬に短い間隔でかかる息は乾いて熱い。
鮒の鱗のように黒い目は泪が溜まってぬめぬめと光を反射している。
「芭蕉さん」
あぁ面白いな、と曽良は思った。
這うように自分から逃げ、柱に背を預けながら身悶える。
苦しいのだ。苦しくて苦しくて仕方ないのだ。

『私の方が先に逝っちゃうだろうから』

その言葉に、キレた。
腹が立って、酷く殴った。殴って、蹴って、懇願した。
芭蕉さん芭蕉さん芭蕉さん芭蕉さん芭蕉さん芭蕉さん芭蕉さん……


気付けばこの有様だった。
怯えて縮こまる彼。痣だらけになった彼が何故か愛おしくて仕方なかった。
そして、その頭を優しく撫でようとしただけだった。抱き締めようとしただけだった。
突然、『それ』は起きた。

(あぁ、怖かったのか)

ひくひくと肩を震わせ、たどたどしく息を吸った。
不器用な呼吸は次第に荒くなり、胸を痙攣させながら浅い息をは、は、と繰り返す。
息の仕方を忘れてしまったのだ。わかる。知っている。

それは死の恐怖

両親を亡くした後、自身も暫く苛まれた発作と同様であろう。
曽良は何もせずそれをじっと眺めている。

ぱくぱくと苦しげに呼吸しようとする鮒。水に帰してやろうかとびくを片手に考えにふける。
覗き込んで、思案する。
しかし、と曽良は思う。
鮒を逃がせば自分の獲物がなくなってしまう。そうすれば一緒に遊んでいた友人たちに馬鹿にされるだろう。
負けは嫌だった。かと言って逃がしたと言えば友人たちに責められる。
どちらにしろ面倒だ。
しかし、鮒の様はいたたまれない。
曽良は悩んだ。
悩んで、悩んで、

パッチン

持っていた鋏で半ば首を切られた鮒は一度大きく跳ねた。

あぁ、似ているなぁと曽良は思う。
ひとり、小さな身体を布団に埋めて、恐慌し荒くなる息をどこか冷静に見ている自分に気付く。
鮒。死んでしまった陸に上がった魚。
死ぬのだろうか、何度もそう思った。
しかし死んだためしもない。
苦しくて、喉に爪を立てる。
鋏で切られる鮒の様をぼんやりと思い出す。
息を止めれば楽になる。
親戚の家に預けられているため、心配はかけられない。布団を噛み締め息を止める。
こうすればすぐに発作が引く事は既に気が付いていた。


死ねないのになぁ。
曽良は芭蕉を見下ろしながらそう思う。
頭も胸も痛いだろう。
見た目ほど酷いものでもないのだ。
まるで昆虫でも観察するように苦しげに過呼吸を繰り返す芭蕉を見つめていた。
苦しさにボロボロと泪を零す眼がこちらを縋るように見る。
「大丈夫ですよ、死にそうになりますけど死なないですから」
芭蕉は首を横に振る。
「苦しいですか?」
曽良が首をかしげると芭蕉は首を縦に振った。
「助けてあげましょうか?」
息の根を止めて。
呼吸の仕方がわからないならば。
芭蕉の胸倉を掴んだ。
びくりと怯えて跳ねる身体。
汗ばんだ薄い胸板は忙しなく上下し、鮮烈に情事を思い起こさせた。
酸素に溺れる、魚。

「ん…ッ」
唇を貪る。忙しない呼吸が行き場をなくして荒れ回るが、慣れている。
まるで絶頂の直前のようだ、と曽良は思う。曽良自身は熱くも何ともないが。
ただ、息もつかせぬよう、逃げ惑う細い首を鷲掴み、口を口で塞ぎ、乱暴なまでに蹂躙する。
鮒の、首の骨を断った感触が蘇る。
息を止めてしまえばいい。
布団で荒くなる息を必死に止めた夜を思い出す。
しばらくすれば自然に終わる発作。それでも
「ん、くふぅ…ッ」
いつの間にかぐったりと落ちた芭蕉の腕。
力なく舌を絡ませ、鼻を鳴らした。
ちゅくちゅくといつもどおり軽く舌を絡めあうと、唇を離した。
「曽良く…」
「治ったでしょう」
頭はまだぼんやりしているようだったが、呼吸は先程までが嘘のように穏やかになっていた。
栗毛の頭を撫でると、安心したようにふにゃりと笑う。
「うん、治った」
「…もう置いて行くなんて言わないでください」
芭蕉はきょとんとこちらを見やる。
「怖かったの?」
「ええ。息も止まる程に」
「…実際息の根とめられかけたの松尾じゃないか!」
きぃ、と芭蕉が腕をばたつかせて不満を口にする。
「……大丈夫ですよ、死にませんから」
軽く唇を重ねる。
理不尽なことはわかっている。


呼吸を忘れたならいくらでも思い出させる。

だから

あなたのそばで泳がせて。






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