日和

□7月最後の日曜の午後。
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「嫌ですよ」
「え〜?」
いつものようにカレーを前にしたジャージのオッサン。
僕が淹れた麦茶のグラスを唇だけで傾けて、水面に息を吹き込みブクブクやっている。
行儀の悪い。
「だって妹子と永久に一緒になんていれるわけないんだからさぁ」
「それなんて地獄ですか」
「酷!!」
グラスが唇から離れ音を立てて直立に戻る。
汗っかきなオッサンは、ジャージが変色せんばかりに汗を流しながらもカレーをかきこんでいる。オッサンじゃなければそこそこキマって見えるんじゃないか、と僕は思う。
オッサンの汚い息でブクブクされた麦茶の氷はもうほとんど溶けてしまって、グラスは水滴を吹いている。
蝉が鳴いてる。
酷暑になって数週間。初めのうちに泣いてた蝉はそろそろアリの巣に収納される時期だろうか。
それなのに、一向に蝉は減らない。
「だからって何で今そんなことを言う必要があるんです」
僕は少しざわつく胸の内を意図的に無視してそう言った。
太子はうなる。
「だって、何となくそう思ったんだもの」
「どうだっていいじゃないですか。今日も明日も、まだしばらくその先も」
きょとんとした眼で太子は僕を見つめ返した。
僕はざわめきの中に少しのいら立ちが紛れていることに気付いたが、それもまた無視をして、額の汗を拳で拭った。
「そうかな」
太子は言う。
「私はそうは思わないんだけど」
食べることに飽きたのかしきりにスプーンでニンジンを刻みながら太子は僕に目を合わさない。
「もしかしたら今日これから、日が暮れる前にでもどっちかがいなくなっちゃうかもしれない。このすぐ後にでも妹子んちのガスコンロが爆発したり、妹子が全裸で池に飛び込んだり大宇宙の灰燼に帰するかもしれない」
「しねえよ!!」
「暑さで蕩けて排水溝にながれっちまうかもしれないしな〜」
「だからなんだよそれ!」
「だからさ」
太子は眉をハの字にしてふへへ、と嗤った。
「思いついたことは思いついた時に言っとくんだよ」
そう言って太子は異様に小さくなったニンジンを一気に口に運んだ。
咀嚼する。
暑苦しく鳴き喚く蝉の声の中、太子の口が何の音も立てずに動いている。
あなたは生きてる。
蝉の声。耳鳴りのように脳の中を反響して鬱陶しくてたまらない。胸がざわめく。
僕がざわめきを不安だと認知した頃に太子の嚥下は終わった。
僕を不安にさせておきながら当の本人はのうのうとカレーを派手に食べ散らかしている。
全く僕の気持など無視だ。

「だから、妹子。死んじゃうなら私より先にしてね」

再度太子は言った。
だらだらと流れる汗は背骨をなぞるように滴り落ち、歯がゆくて不快だ。
「普通逆でしょ」
何故僕が先に逝かねばならないのか。
普通は相手に自分より長く生きるよう言うものではないか。
第一僕の方が随分年下だ。
あついな〜、と太子は手を団扇にして煽ぐ。
何気ない会話の中に、僕の不安を混ぜ合せるようにして、平然と太子は言う。
「一緒には死ねんのだからさぁ」
ふぅ〜、音を立てて吐く息は熱を帯びてカレーくさい。
えぇわかっています、僕は素直にそう言うことすらできず只黙っている。

「妹子のいない世界で悲しむなんて、私だけで十分だよ」

「僕が、太子がいないと悲しむとでも」
僕はあえて目を細める。上司と言う変な生き物を小馬鹿にして、何気ない会話の続きを。
「え!?そうだろ、悲しいだろ?しわしわの干し芋になっちゃうだろ?」
「うっわー…」
「なんだよその憐れむような眼!!」
「あなたの自意識過剰っぷりはいっそ死ねばいいと思います」
ウザいほど仰け反って傷つく太子を無視して僕は自分のカレーを口にした。
ウザい。ムカつく。

太子がいない世界を生きていける自信がない自分にムカつく。

でも、きっと太子なら、僕のいない世界でも生きていける…気がする。
それは、「僕がいなくても平気だから」ではないことは重々承知。おそらくこれは自惚れではない。
太子なら、悲しくて、寂しくて、苦しくても…一人ぼっちでも、きっと生きていくのだ。
その僕がいない…僕がいたという過去を包含してなお、目の前にいる寂しがりで構って欲しがりのオッサンは意外と強く生きていけるに違いない。

僕は、どうだ。

寂しがりではないし、太子が構ってこなければせいせいするし、むしろ二人でいることを鬱陶しいとすら感じている僕はと言えば、どうだ。
「妹子」
蝉の喧騒の中、太子の声だけがはっきり聞き取れる。
それだけが、掻き消されずに僕の耳に突き刺さる。
「呼ばないでください」
「どこまで私を拒絶すれば気が済むのお前!?」
暑い。
「僕は暑いんですよ」
「私だって暑いよ!」
「だからあまり鬱陶しくしないでください」
「私真面目だぞ!?超絶クールに真面目だぞ!」
僕はもう答えることも面倒になって太子の空になった食器を自分のと重ねて立ち上がった。
背中を滝のように流れていた汗が、足を伝った。
話を聞けよーと拗ねたような声を上げ僕を見上げる太子の顔にも汗の玉がたくさん浮いている。
悪態の一つでもついてやろうかと思いながらも、何もかも面倒になって水道へと向かう。
「あ、私アイス食べたい」
「…たまにはいいこと言いますね。買ってきてください」
「なんで私が!?」
ざぁ、と流れる冷水の音、食器のぶつかる音、蝉の鳴く声。
僕の耳が、太子の声を拾わなくなるまで、後どれだけ何が必要だろう。



溶けて流れてしまえたら、と思う僕の脳は、きっと暑さでどうにかしているだけに違いない。

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