蒼
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大きな音があちこちでしている。
安土城周辺は既に、かなりの範囲まで攻めこまれていた。
揺らめく旗は、織田ではなく蒼や紅など、別の色が圧倒的に多い。
「…ルカ、こっち」
気を抜くと朦朧としてくる意識をなんとか奮い立たせ、ルカは市の声に導かれるまま城内を渡り歩く。
皆、市が今まさに信長を倒しに行こうとしているなどとは思っていないのか、問い質すこともせず道を譲ってくれる。
もっとも、彼女に何かを問うなど、よほどの覚悟がなくてはできないだろうが。
「痛い…?」
「えっあ…」
気がつくと、市がどこか遠くを見るような表情でルカの方に顔を向けていた。
「いえ…」
思わず視線をそらして、ルカは首を振る。
そう、と彼女は言って、薙刀を地面に立てた。空いた手がゆっくりと自身の胸に添えられる。
「市はね…痛いよ…ずっと痛い。生まれてから、ずっと」
「そ、れは…」
「でも、長政様がいてくれると…痛くなかった…ほんとよ…?」
焦点の合わない市の目に、ルカは頷きを返した。
相変わらず、彼女は虚空を見つめている。
「…もう、終わりにするの…何もかも」
力なく吐き出し、市が再び歩き出した。
数秒立ち尽くして、ルカも慌てて後を追う。
「お市様…!」
このまま付いていけば、否応なしに信長と対決になってしまう。
そして彼女は間違いなく、ルカの持つ何かを利用するつもりだ。
「あの、私…やっぱり…!」
続けようとした言葉は飲み込んだ。
市が立ち止まり、薙刀を構えたからだ。
キラリと光るその刃先の延長線上から、軽い足音が響く。
「何をしてるんですか、お市様」
少年期の高い声が、やけにはっきり聞こえる。
「ら、蘭丸くん…」
ルカが上げた声に反応して、彼は真剣な眼差しをそのままルカに向けた。
「お前も、何してるんだよ、こんなところで」
「それは…」
答えを探して視線をそらすが、薄暗い壁が見えるだけだ。
無言で蘭丸を見つめると、彼は不機嫌極まりないといった様子でため息をついた。
「お市様。ルカに何させようとしてるんですか」
「……」
「答えてください…答えろ!」
蘭丸が弓を構える。同時に、市も薙刀を振りかぶっていた。
禍々しい火花が散り、二人の立ち位置が目まぐるしく入れ替わる。
「…!」
繰り返される競り合いにより、周囲の壁が吹き飛びそうにガタガタ音を立てた。
武器もなく付いて来たルカはせいぜい飛ばされないようその壁にしがみつくしかない。
「信長様に何かしようとしたら…お市様だって許さないぞ!」
「…だったら何? 市を止められるの…?」
険しい表情の蘭丸に対し、市は未だ涼しい顔――いや、薄笑いで攻撃し続けている。
当然だ。体格差に加え武器のリーチでも、市は有利な立場にある。
「蘭丸くん…っ! お市様もう止めてください!」
「うるさい…!」
市の、さらさらした声に憎悪が宿った。
床に座り込むルカめがけて、黒い手が覆い被さってくる。
「っ…」
閉じてはいけない。頭では分かっていたが、目を閉じずにはいられなかった。
何度か経験したあの脱力感に耐えるべく、歯を食い縛る。
周囲の空気がまるで液体のようにねっとりと感じる。
このまま絡め取られて、今度こそ彼女の闇に呑まれるのか。
声が聞こえたのはその時だった。
「伏せろ!」
有無を言わせぬ響きに、理解するより早く身体が動く。途端、背中のすぐ上を勢いのある風が通り抜けていくのを感じた。
パン、という軽い爆発のような音と共に、重かった空気が消え失せる。
ルカはそっと目を開けた。
「……ふ、ふふ…」
少し離れたところで、そんな笑い声を洩らしたのは市だった。
寄りかかるように抱える薙刀を撫で上げ、肩を震わせている。
「お市様…?」
怯えながら、ルカはゆっくりと身体を起こした。
「ちゃんと…付いて…来てね? ルカ…」
「!」
微笑んでから、彼女はたった今まで戦闘を繰り広げたとは思えない、優雅な足取りで奥へ進んで行った。
血溜まりに沈む蘭丸を残して。
「いやっ…」
悲鳴は途中で掠れてしまった。
瞬きも忘れて駆け寄り、少年を抱き上げる。
「蘭丸くん! 蘭丸くん!!」
返事はない。それでも、ルカはずっと呼びかけ続けた。
何度目かでようやく、かすかに瞼が動く。
「蘭丸くん…!」
青くなった唇から空気が漏れる。聞き取ろうと耳を近づけた。
呼吸に近い弱々しさで、何か紡いでいる。
しかし。
近づく音がすべて掻き消してしまった。
「こ、これは…蘭丸殿…!」
「女…貴様の仕業か!?」
織田軍の兵らしい。
ルカが苛立ちを籠めて睨みつけると、彼らは一瞬怯んだ様子を見せた。
「黙って! 早く医者を連れて来て!」
「お、おぉ…そ、それもそうか…」
「いや、しかしお前は…」
「蘭丸くん!」
不意に腕を掴まれ、ルカは驚きながら蘭丸に目を戻した。
見ると、彼の手がしっかりルカの腕を掴んでいる。
「ルカ…――」
後に続く言葉はなかった。ただ、辛そうに歪んだ顔が微笑んで、ぎゅっと一度、手に力が籠った。
「蘭…」
「しっかりして下さい蘭丸殿!!」
横に膝をついた織田兵が、ルカの腕から小さな身体をもぎ取る。
去りゆく方角から、次々と声がしては足音が遠退いていく。
「……」
静かだった。
いや、そこかしこで戦闘の気配はあるが、ルカの周りだけ騒音が避けているようだった。
掴まれた腕はまだ痛い。そこにそっと触れてから、ルカはのろのろと視線を移す。
弓が一式、置き去りにされている。
震える手を伸ばし、ルカはそれを抱き寄せる。
ゆっくり立ち上がった。
「お市様…蘭丸くん…」
二人の顔が浮かぶ。同じ笑顔なのに、彼らが伝えようとしたことはきっと真逆。
そして自分はこの先に進んで、どちらかを選ぶ。いや、もう本当は、どちらかなんて決まっている。
鼓動は早く、胸が痛くなるほどになっている。
ぎこちなく弓に矢をつがえて、ルカは目の前の階段を少しずつ上がっていった。
そこへ。
「おい…そこで何してる?」
低い、静かな声が聞こえてきた。