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お涼の大きな声でわずかに体が震えた。

おそらくその差で、突然振り下ろされたそれはルカからわずかに左へと逸れたのだろう。そのまま、痛々しい音を立てて床に突き刺さる。

薪割り用に裏に置いていた斧だった。

「っ…」

ぞっとしながら後ろに下がり、ルカは相手の顔を見て目を見張った。

ルカも知っている常連客。その男が、白眼を向いた状態で立ち、斧を振り下ろした体勢で今目の前で奇声を発している。

「ルカ!」

駆けつけたお涼がその勢いで男を突き飛ばし、店の戸を閉める。素早くつっかえ棒をして、呆然とするルカの手を引き二階に上がった。

ドン、ドンと力いっぱい戸が叩かれているのが階下から聞こえる。
その音を遮断するように襖を閉めて、お涼は床にへたりこむルカに駆け寄った。

「大丈夫かい!?」
「は、はい…でも」

声のボリュームは自然と小さくなる。
二人で恐る恐る窓辺に近づくと、外はいつもと違う種類の喧騒で溢れていた。

狂気に満ちた怒号、罵声、笑い声、そういったものが憎しみと共に吐き出されている。
この町ではありえないはずの光景だった。

「酷い…急にみんなどうしちまったんだ…?」

笑いながら町を破壊して回る男たち。その数は増える一方で、段々と女性や子どもも混じり始めている。

「伝染してる…?」

思ったことを何気なく呟いて、ルカは「あっ」と空を見上げた。
暗黒に染まる上空。遠くでは雷も落ちている。
これは──

「もしかして…魔王の力がここにまで影響を…?」
「魔王って…」
「信長です…そうだ間違いないっ! きっと、安土で大きな戦になってるんですよ! その影響でみんなこんな風に凶暴化してるんです!」

喋りながら、ルカの中でその予想は確信へと変わっていた。
だが、それが分かったからと言って何か有効な解決策が見つかる訳ではない。戦が終わるのを脅えて待つくらいだろう。

難しい顔で考えるお涼はルカの仮説に半信半疑だったが、彼女よりは確実に現実主義であった。
階下の破壊音を合図に全ての答えを出したのである。

「ここにいてもしょうがない。京から出るよ!」
「へ!?」

突然の宣言。ルカが全くついていけていないというのに、お涼は十も数え終わらないうちに周囲にある物を選別し、風呂敷に包んで体に巻き付けた。

「屋根伝いに行くんだよ。ほら!」

着物を着ているとは思えない足捌きで、お涼があっという間に屋根に降り立つ。
奇声が近づくのが分かって、ルカも後に続く。
が、顔を上げるとお涼は既に隣の長屋を歩いていた。

「えぇっ…早っ…」

今からでも忍になれるんじゃないだろうか。

おっかなびっくり屋根を行くルカがうっすらそう思ってしまうほど、お涼の足取りには迷いがなく危なげない。

「そこ、柔らかいから踏み抜くんじゃないよ!」
「はい!」

確かによそ見している場合ではない。うっかり踏み外せば暴徒と化した人々の中にダイブすることになる。
加えて、空が暗黒に染まっているため視界は最悪。普通の夜のほうがまだ明るいのではないかとすら思えてくる。

「…っと、ここを渡ればすぐなんだけどね…」
「でも、これはさすがに越えられないですよ…」

町には規則正しく道が走っている。小道程度なら気合いで飛び越えられるが、二人の前にあるのは大通り。
しかも間に川をはさんで、無事に歩けそうな屋根は遥か遠く。
その更に奥には京の町の入り口である大門が見えた。

どう考えても降りねばなるまい。

ルカは地上の様子を伺った。
暴徒もあれど、この辺りまで来るとルカたちと同じく避難してきた町人たちが多い。中には、ルカたちに気付いてこっそり屋根に上がろうとする人もいる。

彼らが押し合いへし合いしている中に飛び降りるのは勇気がいるし、殺気だっている町人たちと争いたくない。

どうしたものか、再度お涼の判断を仰ごうと彼女を探す。
彼女は屋根の上でうずくまっていた。

「お涼さっ…」
「来るんじゃないよっ!」

それはもう悲鳴に近かった。ルカは思わず足をすくませたが、やはり心配になって側に寄る。

「お──」
「ぐ…ううう…!」

顔を覗き込んだルカの目に写ったのは、目を血走らせ、歯をくいしばるお涼の苦悶の表情だった。
彼女にまで伝染し始めている。

「お涼さんっ!」
「……」

震えながらもすがろうとした手を素早く振り払い、お涼が無言でルカを睨みつける。
反射的に距離を置いて、ルカはじりじりと屋根の端まで追い詰められた。

「…いや…お涼さん…目を覚まして…っ」

お涼の手が伸びてくる。
避けることもできず、ルカはただその場に立ち尽くしていた。
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